こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。
今日の夢中は、歴史人2020年2月号の特集「明智光秀の真実」です。
■歴史人2020年2月号
いつも歴史ファンにたまらない情報を届けてくれる「歴史人」。
2020年2月号の特集は、「明智光秀の真実」です。
やっぱり来ました、明智光秀。
大河ドラマ「麒麟がくる」の放映開始で注目が高まっています。
これまで、光秀と言えば、「裏切り者」や「三日天下」など、ネガティブな評価をされてきた武将です。
ただ、研究が進むにつれ、光秀は決して悪人ではないことが分かってきています。
むしろ、部下思い、領民思いであった証跡も残されています。
そんな彼がなぜ、主君・信長を殺めたのか…。
戦国史上最大のミステリー「本能寺の変」にも、同誌は深く切り込んでいます。
ただ、館長ふゆきが今回惹かれたのは、こちらの記事です。
「完全解明!謎に満ちた明智光秀の前半生」。
そうなんです。光秀の前半生、特に織田信長に仕えるまでの経歴を記した資料はほぼ皆無。
生年、出生地、父の実名など、すべてが不明…。
そんな光秀の前半生に、「歴史人」が最新の研究成果をもとに迫ります。
■出自は?出生地は?
まずは、謎多き「出自」と「出生地」。
明智氏は、清和源氏に連なる土岐氏の庶流だったようです。
土岐氏は室町時代に美濃国の守護職を務める幕府の要職。
その庶流の明智氏も、室町幕府の一翼を担っていたと考えられています。
生まれた年も生まれた場所も断定されていません。
生年については、永正13年(1516)説と享禄元年(1528)説が有力。他にも天文9年(1540)説もあるというから、なんとも幅広い…。
共通しているのは子年(ねずみどし)であること。なんだかこれだけバラバラだと、光秀が何人もいるみたい…。
生まれた場所も諸説あり。
可児市説、恵那市説、山形市説が有力。いずれも岐阜県ですが、ほかにも滋賀県説もあります。
本誌曰く、可児市にはかつて明智荘があったことから、生誕地として最も可能性が高いとのこと。
これは、「麒麟がくる」ブームがくる中、生誕地争いが激化しそう…。
■若き日の光秀は?
続いて、これまた謎に包まれた、若き光秀の雌伏の時代。
若き日の光秀は、美濃に覇権を築いた戦国大名・斎藤道三の近習だったという説が有力です。
光秀の叔母が道三に嫁いで、帰蝶という女児を出産しています。この女児が、後に信長の妻となる濃姫です。
とすると、濃姫は光秀と従兄の関係にあったことになりますね。
なるほど…。信長と光秀をつなぐ鍵となったのは、濃姫だったのでしょうか。
ただ、その道三が息子の義龍に討たれると、光秀は朝倉義景を頼り越前に逃亡しました。
本誌では、美濃から逃れた光秀が、越前の称念寺の門前に10年ほど暮らし、その後に朝倉氏に仕えるようになったとしています。
一説には、諸国遍歴をしていた光秀が13代将軍足利義輝に仕えたと言われていますが、本誌はその説を退けています。
■信長との出会いは?
この朝倉氏の家臣となったことが、光秀の人生を大きく変えることになります。
光秀が朝倉義景に仕えるようになった頃、足利義昭が越前を訪れたのです。
義昭の願いは、上洛して将軍になること。しかし、朝倉氏にそれを援ける意欲はありませんでした。
そこで、白羽の矢が立ったのが、織田信長でした。
新進気鋭の信長は、義昭の願いを快諾。彼を奉じて京に上洛。天下布武へ第一歩を踏み出したのでした。
光秀は、このとき義昭の使者として信長との交渉役を担いました。
もしかしたら、光秀が濃姫と従兄の関係であったことから、彼が仲介を買って出たのかもしれません。
ここに、信長と光秀が運命的な出会いを果たしました。
それは、義昭が信長にいる美濃に入った1568年頃と思われます。
そしてそれは、光秀が信長を襲う本能寺の変の14年前のことでした…。
さてさて、この辺りの前半生が「麒麟がくる」でどのように描かれるかとても興味があるところです。
そしてもちろん、なぜ光秀が本能寺の変を起こすことになるのかも…。
いやぁ、もうたまりませんね。今年は、明智光秀イヤーになりそうです。
ありがとう、歴史人! ありがとう、明智光秀の真実!