歴史人「光秀と秀吉」 宿命のライバル2人の明暗を分けたものは?

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こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

今日の夢中は、「歴史人」2020年7月号、「光秀と秀吉」です。

■歴史人

いつも歴史ファンにたまらない情報を届けてくれる「歴史人」
2020年7月号の特集は、この2人にスポットライトを当てました。
一人は、大河ドラマ「麒麟がくる」で大いに注目が集まっている明智光秀
いま一人は、そのライバルにして、後に天下人となる羽柴(豊臣)秀吉


歴史人2020年7月号

特集名は、「光秀と秀吉」
いずれも、織田信長の重臣として縦横無尽の働きをしながらも、片や天下の謀反人、片や天下人となりました。
光秀と秀吉、宿命のライバル2人が、明暗をわけた理由とは?

「光秀・秀吉 ライバル対決10番勝負」とか、「もし光秀が秀吉に勝っていたら」とか、興味深い記事もあります。
これは歴史ファンならずとも、読まないわけにはいかないでしょう。
今日は、「歴史人」2020年7月号で、大河ドラマ「麒麟がくる」のちょっぴり先の史実を見ていきましょう。

■光秀と秀吉

「光秀と秀吉」
冒頭の寄稿は、大河ドラマ「麒麟がくる」の時代考証も担当している歴史学者・小和田哲男さんです。

同じ織田信長の重臣でありながら、明智光秀と羽柴秀吉はタイプが全くちがっていた

小和田氏は、過去の史料を紐解いて2人の人物像を考察しています。

史料「老人雑話」によると、秀吉は豪放磊落で傲慢光秀は謹厳実直で慇懃だったといいます。
これは、今に伝わる2人のキャラクターに近いですよね。

そんな対照的な2人ですが、好き嫌いがありそうなものを、能力本位で引き立てたのが織田信長です。
秀吉も光秀もいわば「中途入社組」。通常の武家のしきたりでは大して出世できないところを、実力主義の信長が抜擢しました。

秀吉は、城内の雑用係からはじまり、足軽、足軽組頭、そして武将へと出世。
光秀は秀吉から14年遅れて、信長麾下に馳せ参じます。これは、足利義昭・細川藤孝と信長との交渉役を担ったことがきっかけ。
おそらく、そのときに才能を信長に評価されたものと思います。光秀の出世スピードは異様で、その翌年には秀吉ら他の重臣と肩を並べています。

この後の2人の出世争いはし烈
城主になったのは光秀のほうが先ですが、すぐ後に秀吉も一国一城の主になっています。
信長からの信頼も半端ない。光秀は丹波攻めの大将、秀吉は中国攻めの大将を命じられます。


麒麟がくる 後編(NHK大河ドラマ・ガイド)

では、なぜ2人の運命はこれほど違ってしまったのか?それに対する小和田さんの見立ては大変興味深い。
それは、「パワハラ上司に対する接し方の違い」があったというもの。パワハラ上司というのは信長ですね(苦笑)。
それに我慢ができた秀吉と、我慢ができなかった光秀。その違いが明暗を分けたと指摘しています。

この背景にあるのが、主君信長に対する2人の見方の違い
秀吉は、「暴君ではあるが、いいところもある」と見て、信長の悪い面ではなくいい面を見ようとしました。
一方で光秀は、信長の悪い面ばかりが目に付いてしまったのではないか、というのです。

楽観主義者・秀吉と真面目な官僚・光秀の性格の違いが態度に出たのかもしれませんね。
信長はそうした2人の感情に気が付いていて、本能寺の変直前の時点で、秀吉の方を重く用い始めていた…。
そんな小和田さんの見立ては納得感が高いです。果たして「麒麟がくる」では、どのように描かれるのでしょうか。

■本能寺の変から山崎合戦へ

他にも興味深い記事がたくさんありますが、やっぱりハイライトは光秀と秀吉の「天王山の戦い」(山崎合戦)ですよね。
「歴史人」のなかにも、「天王山の戦いを分けた光秀と秀吉の差」という特集記事があります。

これは、運命の天正10年(1582年)、本能寺の変直前から、勝負が決した山崎の合戦までを時系列でまとめたもの
この頃、光秀と秀吉はともに、織田軍団の究極の地位、方面軍司令官にまで出世しています。

順調にのし上がる2人ですが、先に綻びを見せたのは光秀でした。
それは、光秀が進めていた四国政策に信長が介入、光秀の仲介策を反故にしちゃったのです。
さらに四国攻めの命令が神戸信孝に下されると、光秀の不満と不安は大きく募りました。

一方の秀吉は、中国攻めの最中、歴史に残る高松城水攻めを仕掛けていました。
そこに、光秀に対して、秀吉の援軍として中国に出陣するよう命令がくだります。

そして、運命の6月2日、本能寺の変のときを迎えます。
ここに至る時系列もとても興味深い。5月28日に連歌会が開かれて、光秀は有名な「ときは今~」の歌を詠んでいます。
さらに同じ頃、信長の嫡男・信忠が予定を変更して京都にとどまることを決めます。

本誌では、このときに光秀が謀反の意思を決めたのだろうと指摘しています。
なぜなら、織田家を倒すなら、信長だけでなく信忠も討たなければならないから。
信長と信忠を同時に討つ絶好のチャンスが訪れた…。そう考えた光秀が本能寺に兵を向けたという説は、これまた納得性が高いように思います。

さらに記事では、本能寺の変後、光秀が安土平定や協力者への働きかけを行っていく様を時系列で追いかけます。
この辺りの動きを見ると、光秀の謀反は決して衝動的なものではなく、天下取りを目指しているように思います。
しかし、頼りの細川父子は動かず、さらに秀吉が電光石火で中国から引き返し、光秀軍に迫りました。

そして、6月13日、光秀と秀吉の最終決戦「山崎の合戦」が開戦
明智軍1万6000対羽柴軍4万。情報、器量、戦力…。どれをとっても秀吉の方が1枚上手でした。
宿命のライバル、光秀と秀吉。最後に天は、秀吉を選ぶことになるのです…。

他にも注目の記事が盛りだくさん。これは間違いなく保存版。
「歴史人」2020年7月号、「光秀と秀吉」。歴史を動かした人間ドラマも知ることができます。

ありがとう、歴史人! ありがとう、「光秀と秀吉」!

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