歴史人「敗者の日本史」!光秀、勝頼、三成はなぜ滅びたのか?

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こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

今日の夢中は、「歴史人」2019年11月号「敗者の日本史」です。

■歴史人

いつも歴史ファンにたまらない情報を届けてくれる雑誌「歴史人」
2019年11月号の特集は、「敗者の日本史」
あの名家・名門はなぜ滅亡したのか?表紙には、明智光秀と武田信玄の肖像画が象徴的に使われています。


歴史人 2019年11月号

本誌の冒頭を飾るのは、作家・童門冬二氏による寄稿「敗れ去りしものに共通するものとは?」
同氏は、敗者たちに共通する要素を指摘しています。

特に、敗者の多くが、「自信・自慢・自己認識の誤算(自己陶酔)」という欠点を持っていたと言います。
石田三成がいい例。「自分は正しい。正しいから周りは理解するはずだ」という過信は、周囲の反発を買いました。

「理より情」などとも言いますが、この辺は今の世の中にも相通じるものがありますね。
敗者たちの敗れた理由を探ることで、これからの社会を生きるヒントを得られるかもしれません。

■明智光秀

本誌には、古代から中世まで数多くの敗者たちが登場します。
それぞれに戦う理由と敗れた理由がありました。

「敗者」でイメージする武将というと必ず上位に来るのが、明智光秀でしょう。
本誌では、本能寺の変から、秀吉に敗れる山崎の戦いまでを徹底検証しています。


(明智光秀像)

光秀が本能寺の変を起こした動機については、野望説や怨恨説、黒幕説などが提示されています。
真実は闇のなかですが、主君・信長に対する反発があったのは間違いありません。

本誌は、敵対者だけでなく、家臣に対しても厳しく当たる信長を、「パワーハラスメントを繰り返す経営者」「ブラック企業のトップ」などと表現しています。
ときは戦国時代。光秀が、そんな信長に恐怖しながらも、選択肢として殺害のシナリオを描いたとしてもおかしくありません。


(織田信長像)

光秀はそのシナリオを実現して信長を葬ります。しかし、その後のシナリオは思い通りにいきませんでした。
光秀の誤算の一つは、多数派工作の失敗でした。謀反の後に協力を要請した盟友たちに次々と断られます。

もっと早く政治工作すればよかったのに…とは後付けでしょう。光秀にしてみれば、情報漏洩は自らの死を招きますからね…。
でも、謀反が成功しても味方が増えなかったのは、やっぱり彼も三成と同じく、「自分は正しい」という過信があったのかも。

さらなる誤算は、ライバル秀吉が想定外の速さで中国から戻ってきたこと(中国大返し)。
光秀は迎撃態勢が十分にとれないまま、決戦の山崎合戦に向かわざるを得ませんでした。
結局、光秀はこの戦いに敗れ、敗走のさなか命を落としました。

■武田勝頼

続いて、こちらも「敗者」のイメージ代表格、武田勝頼
世に武名を轟かせた武田信玄。その息子・勝頼は、家督を継いでからわずか10年で武田家を滅ぼしました。


(武田勝頼像)

その敗因の一つとして本誌があげるのは、勝頼の出自の負い目」です。
勝頼は、仇敵・諏訪家の地を引く男子。本来は武田家を継ぐ血筋ではなかったのに、信玄の嫡男・義信の失脚により急遽、後継者に指名されたのでした。

しかも信玄の遺言が足枷となります。
それは、自分の死を3年秘密にすること、勝頼の嫡男・信勝が16才になったら家督を譲ること、風林火山の旗の使用禁止などなど…。
公然と勝頼を中継ぎ扱いして、その威厳と自由を奪いました。武田家臣団に勝頼を軽んじる空気が広がったのは間違いありません。


(川中島の戦い 武田信玄(左))

そんな逆風のなかでも勝頼はよく戦いました。
一時は信玄時代を超える版図を得ますが、やがて武田家は内部から崩壊していきます。
木曾善昌や穴山梅雪ら重臣に裏切られ、流浪する勝頼。その最期のとき、彼に付き添う家臣はわずか40余人だったのだとか…。

名門意識の高い武田家臣団を、傍流の出自とされる勝頼が率いるのは難しかったのでしょうか…。
個人的には、彼でなくとも、こうした差別意識の高い組織は長続きしなかったと思います。
勝頼を滅ぼしたのが、出自や身分にこだわらず人材を登用した織田軍団だったのは皮肉ですね…。

「愚者は経験に学び、賢者は歴史から学ぶ」と言います。
「自分は絶対に正しい!」なんて過信してませんか?敗者の日本史から、自らの生き方を顧みるのが「正しい」のかもしれませんね。

ありがとう、歴史人。今月号もたくさん学びがありました!

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