歴史人「古代史の謎」邪馬台国は九州か畿内か?卑弥呼の正体は?

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館長のふゆきです。

今日の夢中は、歴史人「古代史の謎」邪馬台国は九州か畿内か?卑弥呼の正体は?です。
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■歴史人

いつも歴史ファンにたまらない情報を届けてくれる「歴史人」
2022年4月号の特集は、最新研究でここまでわかった!「古代史の謎」です。


歴史人2022年4月号

狩猟採取の縄文時代から、稲作農耕の弥生時代へ。
その過程で生まれた小国は戦争を繰り返して淘汰され、邪馬台国という小国連合を経て、統一国家・ヤマト政権が生まれた…。

私たちが歴史で学ぶ古代は、基本的にはそうした変遷となります。
ただ、この時期の特徴は、国内における文献資料が皆無ということ。縄文・弥生はもちろん、古墳時代の記録も存在しません。

この時代を知る手掛かりは、遺跡や遺物、中国王朝の記録、または「古事記」「日本書紀」といった後の編纂資料にあります。
情報はわずか…。だから、さまざまな解釈や発想が許されるのが古代史の特徴です。ロマンが広がりますね…。


地図でスッと頭に入る古事記と日本書紀

近年では、古代史研究に現代科学を導入したり、後世の編纂資料の分析が進んだり…。
それによって、これまでの定説にとらわれない、古代史の新しい解釈が生まれています。

縄文人は何を食べていたのか?弥生人はどこからやってきたのか?ヤマト王権はどこにあったのか?
古代史ファンならずとも興味のわく、さまざまな疑問に対する最新の解釈が「歴史人」に掲載されています。

今日はその中から、個人的に最も好奇心がうずいた「邪馬台国」の時代を取り上げます。

■邪馬台国はどこにあったのか

日本史上もっともミステリアスな謎の研究最前線を追う…。
そのように冠された特集「邪馬台国の真実」。そこに、邪馬台国に関する新説・新解釈が記載されています。

最大の謎は、邪馬台国はどこにあったのか…。九州説、畿内説がありますが、今なお論争が続いています。
この特集では、「九州にあったとするしかない」と九州説を支持しています。

その根拠とするのが、邪馬台国を記す中国の歴史書「三国志魏志倭人伝」の解釈です。
同書に用いられている「水行」と「渡海」の語句と用法の違いから、邪馬台国が統治した倭国が九州島から出ていないことが分かるというのです。

確かに同書には、朝鮮半島から邪馬台国に至る行程が詳しく記載されており、九州島に上陸してから海を渡っていないとするその解釈は納得感があります。
とすると、邪馬台国は、2~3世紀ごろ九州にあった30近い小国の連合体、その都があった国と言えます。果たして、真実はいかに…。


邪馬台国とは何か(共著)

■卑弥呼の正体

その邪馬台国の女王が「卑弥呼」です。
その女王の実態に迫るのが、特集「女王『卑弥呼』の謎と実像」です。

「卑弥呼」の存在が記されているのも、中国の歴史書「三国志魏志倭人伝」です。
それによると、小国が争うなかから、ひとりの女性が民衆から王として「共立」されたとあります。それが卑弥呼です。

同書には、卑弥呼が「鬼道に事え(つかえ)、能く衆を惑わす」という記載があります。
他にも倭人が骨を焼いて吉凶を占っていたという記述もあり、卑弥呼がシャーマン(巫女)として祭祀を執り行っていたことが窺えます。


大論争 日本人の起源(共著)

弥生時代の各地の遺跡からは、祭祀用の玉類や土器、卜占用とみられる焼け焦げた骨も出土しており、当時の祭祀の姿が明らかになってきています。
卑弥呼は、先祖の霊を祀ってそのお告げを人々に伝える役割を担い、民衆から「神の子孫」と崇められていたと推察されます。

また、同書には、205年前後に邪馬台国を訪れた後漢の使者による卑弥呼評があります。
そこには「長大(30代後半)で夫はいない」という記載があります。

そうすると、卑弥呼は15~18歳の頃に倭の30国を治めるようになり、70歳前後になって魏に最初の遣使を行ったことになります。
神秘の女王・卑弥呼は、若くして王となり、長く国を治めたことになりますね…。卑弥呼は誰だったのか。こちらも今後の研究により、解明されていくかもしれません。

他にも、縄文から弥生、古墳時代に至るまで、さまざまな謎に対する最新の解釈が記載されています。
古代ロマンがひろがる特集、「歴史人」2022年4月号「古代史の謎」。あなたも、新説を発見してみませんか?

ありがとう、歴史人! ありがとう、「古代史の謎」!

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