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館長のふゆきです。
今日の夢中は、後白河法皇は希代の権謀家だったのか?永井路子「源頼朝の世界」です。
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■源頼朝の世界
源平合戦の時代を生き抜いた後白河法皇。
ときに平家に与し、ときに源(木曽)義仲に与したかと思うと、次は義経、さらに頼朝と、自在に組手を変えて源平を翻弄しました。
頼朝はそんな法皇を称して、「日本国第一の大天狗」と呼びました。
確かに、平家の滅亡から、義仲・義経という源氏一族の葛藤から滅亡まで、その全てを操ったような造作は「大天狗」に相応しい…。
果たして、後白河法皇は希代の権謀家だったのか?
この問いに対して、「炎環」「北条政子」などで源平合戦の時代を鮮明に描いた永井路子さんが、独自の見解を示しています。
それが記されているのは、永井路子さんの歴史エッセイ集「源頼朝の世界」。
永井さんが「私の鎌倉人物地図」(あとがきより)という一冊。源頼朝や北条政子、北条義時、後白河法皇など様々な人物に焦点を当て、鎌倉時代という一大変革の時代がいかに為されたのかを探ります。
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を読み解くための最良の一冊とも言えますね。
今日はその中から、「後白河法皇」の章を取り上げます。果たして、後白河法皇は希代の権謀家だったのか?それとも…?
■後白河法皇
後白河法皇は希代の権謀家だったのか?それとも…?
「それとも」の後に続く言葉は、なんと「希代の暗主だったのか」。
これはなかなかに極端な選択肢ですよね…。
片や恐るべき策謀を張り巡らす専制君主、片やどうしようもなく愚かな君主。
結論から言うと、永井さんは「暗主」説を展開しています。
曰く「一見次々と権力者の間をすりぬけてきたようだが、(中略)彼らをあやつったのではなく、むしろ時代の波に翻弄されたのは後白河自身なのだ」と。
権謀家のイメージの強い後白河法皇ですが、歴史書に記されるその姿は真逆です。
何しろ、彼の父鳥羽上皇が「天皇の器ではない」と烙印を押しているのです。その理由は、遊びが過ぎるから…。
後白河は皇子時代、「今様」にハマりました。しかも尋常じゃないほどに…。
今でいう歌謡曲のようなものですね。昼も夜も歌い明かし、ときには喉も腫れて湯水も通らなくなりましたが、それでも歌い続けたといいます。
はなから皇位に見放されていた後白河ですが、思いがけない偶然から政治の檜舞台に立つことになります。
ときの近衛天皇が17歳で病死。皇子がいなかったため、「過渡的な手段として皇位をあたえられた」のでした。
(後白河法皇院政の地・法住寺(京都))
この後白河の思わぬ即位が戦乱を招きます。平安末に起きた保元・平治の乱がそれです。
この乱によって後白河の政敵が粛清され地盤が強まるのですが、実は後白河はほとんど何もしていません。
むしろ、平治の乱は、後白河がボーイフレンドの藤原信頼を溺愛したために起きた乱と言えます。
そして本書曰く「あさましいまでの寵愛をそそいだ」信頼が敗れると、これを救うのを早々に諦めて、この乱の勝者・平清盛と結びつきを深めました。
■日本一の大天狗
あるときは度を過ごすほどに溺愛し、それがままならなくなると冷酷なまでの無関心さで切り捨てる…。
これがこの後も幾度となく繰り返されました。平家から源(木曽)義仲へ、義仲から源義経へ、義経から源頼朝へ…。
源平を動かした後白河法皇ゆかりの京都「法住寺」と「三十三間堂」
永井さんはそこに、権謀家としての非情さよりも、人間的な「弱さ」が見えると言います。
自分の言うことを聞かない平家に嫌がらせしたり、義仲の野卑さに嫌気がさすと見放したり…。ときの感情に左右されているようにも、その場しのぎのようにも見えるんですよね、この方の行為は。
その象徴とも言えるのが、義経と頼朝への院宣でした。
後白河ははじめ、自らの懐刀とした義経に頼朝追討の院宣を出しますが、その義経が挙兵に失敗すると、たちまち頼朝に対して義経追討の院宣を出したのです。
「なんたる無定見!」と永井さんが「!」付きであきれるのも当然のこと。
これには、後に太政大臣になる九条兼実も日記「玉葉」で、「朝家ノ軽忽、コレヲ以テ察スベシ」と非難しています。
この一連の過程で、頼朝の「日本一の大天狗」発言が飛び出します。
院宣について後白河は弁明します。「あれは義経が強制したもので、本意ではない。あれはまったく天魔の所為で…」。
それに対し頼朝が嚙みつきました。「天魔の所為?あなたは責任がないと言われるのか。世の中を騒がしている日本一の大天狗が、あなたのほかにいるとは思いませんが」。
このやり取りを見る限り、世に言われているように、頼朝が後白河を「大天狗」として恐れたとは思えません。
むしろ、責任逃れを図る後白河を痛烈に揶揄して、「大天狗」とからかっているように見えます。
(写真ACより)
結局、院宣の件で弱みのある後白河は、朝臣の解任や軍事警察権、兵糧徴収権などの頼朝の要求を飲まざるを得ませんでした。
これこそ、のちに鎌倉側が独自の政治権力を獲得することにつながるものでした。後白河の無定見は、結果として貴族社会の終焉をもたらしたのです。
永井さんは最後に、「もし一介の皇子として今様に徹していれば、愛情こまやかな芸術家としてまったく別の評価をうけていたかもしれない」と助け舟を出しています。
「その政治的手腕はまったく買えないが、むしろ芸術家かたぎの素質を備えながら動乱期の政治を任されたところに後白河の悲劇がある」とも。
後白河法皇は、源平の時代を生き抜きました。
平家の滅亡も、義仲と義経の悲劇も、すべて見届けました。やはり後白河は、希代の大天狗だったのかもしれません…。