平山優「新説 家康と三方原合戦」家康はなぜ信玄に戦いを挑んだのか?

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館長のふゆきです。

今日の夢中は、平山優「新説 家康と三方原合戦」家康はなぜ信玄に戦いを挑んだのか?です。
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■新説 家康と三方原合戦

徳川家康、生涯最大の負け戦「三方原合戦」(みかたがはらかっせん)。
元亀3年(1572)12月22日、遠江国浜松郊外の三方原において、徳川家康は武田信玄と激突。この合戦で家康は、多くの家臣を失い、自らも討死の危機にさらされる大敗北を喫しました。

このため三方原合戦は、家康の"三大危機"の一つに数えられています(残り2つは、三河一向一揆と伊賀越え)。
信玄に敗れた家康は領土の三分の二近くを武田方に奪われました。まさに蹂躙…。それは戦国大名・家康の前途を断つような敗戦だったのです。

しかし、これほど著名な合戦でありながら、三方原合戦には驚くほど実情を伝える史料が残っていません
なぜ若き家康は老練な信玄に立ち向かったのか?なぜ家康は籠城ではなく出陣を選んだのか?信玄の狙いはなんだったのか?


新説 家康と三方原合戦

そうした三方原合戦にまつわる多くの疑問について、歴史学者の平山優さんが果敢に切り込みました。
平山さんは大河ドラマ「どうする家康」の時代考証も務めていますね。その著書が「新説 家康と三方原合戦」です。

「新説」と銘打っている通り、これまでの定説に一石を投じる意欲作
三方原合戦をあらゆる角度から再検証、合戦にまつわる多くの謎に迫ります。果たして、平山さんが解き明かした三方原合戦の真相とは

■なぜ若き家康は老練な信玄に立ち向かったのか?

本書には、家康の自立から信玄との合従連衡、さらに三方原合戦の開戦から推移まで、事細かに分析や見解が記述されています。
これほど詳しく三方原合戦を掘り下げた著作があったでしょうか…。しかも地図なども掲載されているので、目の前に両軍の動きが浮かぶようです。

本書で多くの疑問が解き明かされているのですが、今回は個人的に特に興味深い次の3つを取り上げましょう。
疑問の一:なぜ若き家康は老練な信玄に立ち向かったのか?
疑問のニ:なぜ家康は籠城ではなく出陣を選んだのか?
疑問の三:家康を木端微塵にした信玄はなぜ進軍を止めたのか?


まずは疑問の一、なぜ若き家康は老練な信玄に立ち向かったのか?
当時、圧倒的な力の差があった家康と信玄。片やようやく三河平定を成し遂げた弱小大名、片や戦国最強の呼び声が高い甲斐の虎。

家康にとって信玄は絶対に怒らせてはいけない存在…。実際に、両者ははじめ甲三同盟を結び、連携して今川領を攻めています。
しかし遠江計略の過程で、両者の関係に綻びが生じます。仕掛けたのは、なんと家康でした。本書曰く「信玄の苦境を見て、家康は豹変した」

遠江は徳川・武田両氏の切り取り次第だったのに、武田方の秋山勢が遠江に侵攻したのは重大な盟約違反だと難詰したのです。
当時、信玄は東の北条氏に攻められ、また反武田の一揆蜂起もあり、動くに動けない苦境に陥っていました。家康は苦境に陥る信玄の弱みに付け込んで、「遠江は徳川が保持すべきものだとの態度を鮮明にした」のです。


徳川家康と武田信玄

さらに家康は密かに上杉謙信と結び越三同盟を締結、信玄との同盟を破棄しました。
本書曰く「家康が甲三同盟を破棄しただけでなく、宿敵上杉謙信と越三同盟を結んだことに、信玄は激怒した」。

これは従来抱いていたイメージとは異なる経緯です…。なんだか「調子に乗っちゃたな、家康」という感じ。
この調子に乗った家康を戦国最強の信玄が許すわけはありませんでした。信玄は、来たる対織田・徳川戦に向けて、ひそかに爪を研ぎます。

そしてついに元亀3年9月に軍勢を招集すると、翌10月に信玄本陣も出陣、大井川を超えて遠江に侵入しました。
信玄はこの軍事行動を「三ヵ年の鬱憤を散じるものだ」と言っています。信玄は、家康が秋山勢を追い出したことや宿敵謙信と結んだことなどを深く恨んでいたのです。本書曰く「さまざまな事情から堅忍を重ねてきた信玄の鬱憤が、ついに家康に向かって爆発したのである」。

■なぜ家康は籠城ではなく出陣を選んだのか?

鬱憤を爆発させた信玄の進軍は迅速かつ激烈でした。
次々と遠江諸城を陥落させると、瞬く間に家康が本拠とする浜松城に迫ります。

そして運命の元亀3年12月22日が訪れます。武田軍は浜松城に向けて南下を開始します。
しかし城を攻めることなく、突如進路を西に変更。三方原台地に上がっていきました。どうする家康?

この緊迫した場面の決断が「疑問の二」につながります。なぜ家康は籠城ではなく出陣を選んだのか?
よく知られる浜松城における軍議のシーン…。家康が信玄との決戦を言明。重臣らが諫めたにもかかわらず、自分の屋敷の裏口を踏み破って通るのを黙って見過ごせるかと、出陣に踏み切ったとされます。


(浜松城/写真ACより)

果たして実際はどうだったのか…。実は、この合戦に至る経緯こそ、今回平山さんが提示した「新説」のクライマックスになります。
まず、先の軍議ですが、その場は「浜松城ではない」と驚きの指摘をしています。史料などから「武田軍を追尾しながら、その行軍の過程で軍議を行っていることがわかる」というのです。

そう…徳川方は、信玄が本国三河に侵攻する意図だと考え、その後を追ったのです。ただ、この時点では本格的に戦闘するつもりはなかったと考えられます。
ところが、「武田軍は再び徳川軍の意表を衝く動きに出た。このことが、開戦の引き鉄になったと考えられる」。

その「意表を衝く動き」とは、武田軍による再度の進路変更…。矛先を向けたのは、浜名湖水運を掌握する「堀江城」でした。
徳川方にとって浜名湖水運は尾張・三河からの補給の生命線。これを武田方に奪われれば、浜松城は完全に孤立…死命を制されてしまいます。

家康は何としても信玄を止めなければなりませんでした。そして「そのように結果的に仕組まれた」かのように、家康は信玄に無謀な戦いを挑んでいくことになるのです。
恐るべし信玄…。浜松城の弱点が堀江城にあることを掴んでいたのでしょう。まさに大河ドラマの名言「戦は勝ってから始めるもの」を体現しています。


(浜名湖/写真ACより)

■家康を木端微塵にした信玄はなぜ進軍を止めたのか?

本書では、そうして戦いに引きずり込まれた家康軍が、待ち構えていた信玄軍に散々に敗れる合戦の模様も記されます。
家康も討ち取られそうになりますが、それを避けられたのは「夜陰に紛れて撤去したことや、徳川家臣らが身を楯にして、懸命に彼を逃がしたから」と指摘します。「家康は、幸運だったといえるだろう」とも。

さらなる幸運が家康に訪れます。徳川軍を叩きのめし三河に侵入した武田軍が、突如進軍を停止したのです。
このときまで信玄は奥三河を攻略、東三河に手を伸ばし、三河併呑も視野に入っていました。それなのになぜ?ここで「疑問の三」が浮かびます。家康を木端微塵にした信玄はなぜ進軍を止めたのか?


(風林火山の屏風/恵林寺)

これについて本書は、通説にある通り、信玄の病気を指摘します。その病は重篤なものでした。
本書に、その病気は「隔」(かく)であったと記載されています。この「隔」とは、今日の胃癌に相当すると推定されます。食べた物を留め得ず、吐き出していたのだとか…。

結局、武田軍は元亀4年4月、信濃に向けて撤退を開始。その帰途で信玄は死去しました。享年53。
信玄の死によって、家康は絶体絶命の窮地を脱することができました。本誌曰く「もし信玄が病身でなければ、家康は信玄に屈服を余儀なくされていたかも知れない」。もちろん、後の天下人・家康もなかったかもしれませんね…。


(家康しかみ像/岡崎城)


なお、本書「あとがき」に、著者の平山優さんが三方原合戦に引かれるようになった経緯が記載されています。
中学生の平山さんは高柳光壽著「三方原之戦」に魅了されたのだとか。まさに三方原合戦の定説とも言うべき高柳説を信奉しながら、一方で平山さんはある疑問がずっと引っかかっていました。

それは、「信長公記」にある「武田軍が堀江城を攻めようとしたので、徳川家康は軍勢を出し、これと戦った」とあるくだり。
なぜ信玄は堀江城を目指したのか、なにゆえ堀江城攻めは徳川家康を刺激したというのか。その疑問を説く糸口を2020年晩秋に平山さんは見つけます。

とある研究で遠江の地図を作成しようとしたとき、「疑問の二」に記したような堀江城の地理的な意義に思い当たったのです。
「武田信玄が、三河に侵攻するのを停めて、堀江城に軍勢を差し向けようとしたのは、実は浜松城を干上がらせ、屈服させるためではなかったか」。

その仮説を立ててからの平山さんの研究は白眉です。疑問を疑問のままで終わらせないあくなき探求心…それが、歴史に新たな視座をもたらすのでしょうね。
それらについては本書第5章「浜松城と徳川家康」に詳しいので、ご関心のある方は一読されることをおススメします。

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