「徳川将軍15代と大奥」春日局、お江、篤姫…徳川を支えた女性たち

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

今日の夢中は、「歴史人」2021年10月号、「徳川将軍15代と大奥」です。

■歴史人

いつも歴史ファンにたまらない情報を届けてくれる「歴史人」
2021年10月号の特集は、「徳川将軍15代と大奥」です。


歴史人2021年10月号

江戸城本丸御殿の聖域・大奥「女の園」の深遠に迫る!
歴史人が、その実態やしきたり、事件などを数々の史料をもとに徹底解析します。

豪華絢爛で花園のような印象もある大奥…。
しかし、そこには徳川政権を支える強い使命と、様々な権謀術数が蠢いていたのでした。

今日は、そんな大奥と徳川将軍家との歴史を紐解きましょう。
あまり表に出ない大奥の世界…。ただ、そこから徳川将軍の実像や世相が浮かび上がったりするんですよね…。
今日は「歴史人」から、江戸徳川260年の歴史を旅してみましょう。

■大奥とは

そもそも、「大奥」とはどんな場所でしょうか…。
城の御殿は「表」と「奥」に区分されています。「表」は城主の公的な空間、「奥」が城主の私的な空間です。

幕府の置かれた江戸城では、「奥」はさらに「中奥」と「大奥」に区分されていました。
「中奥」は将軍個人が執務と日常生活を営む場所。そして「大奥」が将軍の家庭を支える女性たちが住む場所…。
大奥は、江戸城のなかの将軍の私邸と言えます。そこには、将軍の正室や側室、将軍の子女らが暮らしていました。


江戸城と大奥

…といっても、将軍が好き勝手できたわけでもなく、様々なしきたりや組織がありました。
大奥の重要な役割である世継ぎをつくるための「床入り」でさえも、細かな作法に則らないといけません。

指名のお作法や床入りの手順、化粧の仕方から厳密な身体検査…。
さらに驚くのは、床入りの際に添い寝をする人間がいたということ。
側室・妾などが寝床の場を利用して将軍に頼みごとをするのを防ぐためとされていますが、将軍も落ち着かなかったでしょうね…。

■大奥のはじまり

その「大奥」が江戸城本丸御殿に誕生したのは、2代将軍・秀忠の時代と推定されます。
ことのき、後の3代将軍・家光の乳母を務めていた春日局が「大奥」の仕組みをつくり上げたと言われています。

その目的は、なによりも将軍のお世継ぎをつくるため…。
幕府を開いて間もない徳川家にとって、血脈を着実につなぐことは政権安定化に絶対条件でした。

しかし、家光には男色の気があって、女性に興味を持ちません…。
そこで春日局は、家光が気に入りそうな女性を連れてきては家光のそばに置き、側室として大奥に住まわせました。


春日局/福田千鶴

この家光を含め、徳川将軍15代と大奥の関係図が、本誌に特集されています。
大奥の女性たちが歴代将軍にどのように関わっていたのかが分かる、とても興味深いページです。

たとえば、「大奥」の原型ができたとされる2代将軍・秀忠の時代。
彼は、17歳でお江の方と結婚すると、二男五女の子宝に恵まれました。
そのうちの一人が家光です。歴代将軍の正室で将軍を生んだのはお江だけ…。他はすべて側室なんです。
このとき江戸城にお江を中心とした奥の制度が成立。奥向きを取り仕切って、「大奥」の土台を築きました。


江 姫たちの戦国(上)/田渕久美子

その奥の体制を強固なものにして、「大奥」という組織を確立したのが春日局です。
先述の通り、3代将軍・家光の世継ぎをつくるために奔走。ついに側室・お楽の方から待望の嫡子(後の家綱)誕生につなげました。
お江の死後、大奥における権力を一手に握ると、大奥に籠りがちだった家光の意向を老中に伝える役割も担い、大奥が政治に口出しをする土壌となった内証ルートをつくりました。

■大奥と徳川将軍

ただ、その後の将軍は子宝に恵まれません…。
側室が亡くなったり、生まれた子供も夭折したり…。
7代将軍・家継が8歳で世を去ると、秀忠の男系子孫の血脈が途絶えてしまいます

この後、8代将軍に就いたのが徳川吉宗。家康の曾孫にあたる人物で、紀州藩主を務めていたところを将軍に抜擢されました。
彼自身は側室との間に男子をもうけ世継ぎ誕生に成功しましたが、ときは幕府財政が苦しい時代。
享保の改革で財政改善を進め、大奥にも女中法度を出し倹約を促しました。女中たちが衣服を新調しているのを見ると、これを咎めたそうです。


大わらんじの男 八代将軍 徳川吉宗(1)/津本陽

一方で、多くの側室をもうけたのが11代将軍・家斉
在位50年で側室16人、子供の数も50名を超えました。世継ぎづくりという大奥の面目躍如、大忙しだったでしょうね。
この家斉の好色・精力絶倫ぶりを促したのが大奥という組織でした。大奥の全般を取り仕切る御年寄(春日局もこの役職でした)が、15歳で将軍に就いた家斉に経験豊富な奥女中をあてがい、筆おろしをして導いたと言われています。

徳川末期は、大奥の正室たちが徳川家存続に尽力しました。
13代家定の正室・篤姫(天璋院)は、徳川存続のために出身の薩摩藩と対峙しました。
14代家茂の正室・和宮は、史上初めて皇族から武家に嫁ぎましたが、家茂没後も徳川家に留まり、戊辰戦争では慶喜の助命嘆願と徳川の存続に力を注ぎました。


天璋院篤姫(上)/宮尾登美子

大奥にドラマあり、そして江戸徳川の歴史あり…。
そこには、華やかな「女の園」とはかけ離れた、江戸徳川を背負う重い使命のようなものを感じました。

本誌にはさらに、大奥の序列や給料、衣食住まで、ふだんは知ることのない情報が満載です。
大奥のスキャンダルの真相に迫る「大奥事件簿」なんて特集ページも…。
なんとも盛りだくさんな特集、歴史人「徳川将軍15代と大奥」でした。

ありがとう、歴史人! ありがとう、「徳川将軍15代と大奥」!

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