徳川家康(26)立命往生の巻!家康死す…天下泰平への思いは命尽きるまで
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館長のふゆきです。

今日の夢中は、徳川家康(26)立命往生の巻!家康死す…天下泰平への思いは命尽きるまで…です。
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■あらすじ

豊臣家滅亡後、徳川家康は幕府永続の基盤を築くこと、確固とした泰平の世を作ることに専念します。
家康は「人間はみな永遠に続く大樹の枝葉なのだ」という信念に至り、万民が愛と安らぎを享受できる世をめざしました。

家康は、江戸幕府の体制を強固にするため法制度の整備を進めます。武家諸法度を制定し諸大名を統制、泰平を永続させる土台をつくりました。
さらに、江戸の町づくりなど都市基盤も整備。権益を狙う異国人の牽制も行い、多岐にわたる経済施策を講じました。

しかし、家康の晩年には、伊達政宗ら一部の大名に反乱の兆しが見え始めます。さらには、徳川家内でも秀忠の後継者問題が表出…。
家康は、それらを自らが旗を振って鎮圧あるいは解決。泰平の世の実現にために、最後の最後まで尽力しました。

そして、やって来る家康の最期のとき。死期を悟った家康は、秀忠や家臣たちに遺言を残します。
天下泰平の世を願い、そして実現した男、徳川家康。元和2年(1616年)4月17日、75年の生涯を閉じました

■天下泰平への執念

時代小説史に残る名著、山岡荘八「徳川家康」全26巻
壮大な歴史小説の最終巻、第26巻「立命往生の巻では、徳川家康の晩年とその死が描かれます。

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ここまで読んできてあらためて思うのは、徳川家康という人物がとんでもない波乱に満ちた人生を送ったということです。
6歳から19歳までを他家で人質として過ごし、武田信玄との戦いでは絶対絶命の窮地に陥ります。
さらに織田信長との同盟時代には正室と嫡男を死に追いやり、信長死後は豊臣秀吉と対立するも臣従の道を選びました。
関ケ原合戦を経て、ようやく天下人の座に就きますが、なお戦の火種は残り、大坂の陣により豊臣家を滅ぼさざるを得ませんでした

波乱の人生を通して、家康が人生の芯に据えたのが、天下泰平への執念とも言うべき強い信念です。
それは、戦乱により辛酸をなめ大切な人を失い続けた家康だからこその、実体験に根差した希求と言えるでしょう。

最晩年においても、泰平への執念は薄れることはありません。むしろ、死期が迫ってさらに思いが強まっているように見えます。
それは、家康の傍で控えていた柳生宗矩が、「鬼だ!これこそ凄まじく、大きな泰平の鬼なのだ!」と震えおののくほど…。

■伊達政宗と松平忠輝

家康の晩年、戦乱の火種となるような不穏な動きを見せたのが東北の雄・伊達政宗でした。
娘婿の家康六男・忠輝を擁して天下をうかがう政宗は、大坂の陣においてもその後も、徳川家に忠実とは言えない怪しげな行動を見せます。

それに対する家康の対応は、まさに「泰平の鬼」と言えるものでした。
息子・忠輝に永年対面禁止を命じると、深谷の城に幽閉。やがては改易、所領を没収するという厳しい処断を下しました。
筆者は、家康のこの処断について、「わが子を罰しても伊達との争いを避けよう」とする意図と書き記しています。

(徳川家康像/駿府城)

さらに家康は、74歳の老齢で冬籠りの季節にもかかわらず、関東で大規模な鷹狩りを敢行。
当初は葛西から狩り始めの予定を武蔵の戸田に変更すると、川越、忍、岩月、越ケ谷へと狩りを進めていきました。
表面は遊山まがいの鷹狩りをよそおいながら、実は江戸を取り巻く東北方からの防衛線の整備であることは明らか…。

こうして武威を示して政宗の蜂起を抑えると、一方では政宗に文を出して、忠輝のことを詫びるとともに、政宗の嫡男忠宗に将軍の娘を嫁がせることを伝えました。
この宥和策にはさすがにやり過ぎと家臣は反対しますが、家康は「これで戦が一つ買えれば安いものよ」と明るく笑うのです。ここに至って、ついに政宗も家康に心服するのでした。

■遺言

家康はさらに、武家諸法度を発して諸大名を統制、徳川家内においても秀忠の後継に長男・竹千代(のちの家光)を指名。家康が大切にする「長幼の序」を諭しました。
本書では、家康が江戸城に入ったとき、お江が偏愛する国松も竹千代と一緒に上段に並んで挨拶しようとしたとき「ここは国どのの坐るところではない。よいかの、国どのは竹千代どのの家来なのだ」と言い聞かせたという逸話が紹介されています。

こうして、晩年も天下泰平の世を実現するために、骨身を惜しまず働き続けた家康…。
さすがに無理がたたったか、元和2年(1616年)1月、鷹狩りに出た田中で病に倒れ、同年4月17日駿府城で息を引き取りました享年75

なお、その死の直前、瀕死の病床にありながら家康が諸大名に向かって伝えたとされる言葉が本書で紹介されています。

われ天寿まさに終わらんとすれども、将軍、天下を統ぶるが故に憂い思うことなし、しかれども、天下は一人の天下にあらず、天下は天下の天下なり、若し将軍の政道、理にかなわず、億兆の民艱難することもあらば、誰にても取って替わらるべし。四海安穏にして、万民その仁恩に浴すれば即ち可、われにおいていささかも恨むところなし。

天下は一人(上に立つ者)のための天下ではない、天下(すべての者)のための天下なのだ…。もし将軍が民を苦しめるような政治を行うようなことがあれば、誰が取って替わってもよい…。
それは、まさに天下泰平に人生を捧げた一人の男の、強い誇りと矜持が感じれられる言葉です。
そしてそれは、残された者たちへの切なる希い…私のためでなく万民のために政を行うように。そんな未来に向けた遺言であるように思います。

果たして、いまの日本はどうでしょうか…。
山岡荘八「徳川家康」全26巻、ここに読了。天下泰平の思いは命尽きるまで…。この物語をここで終わることのないように、その先へと繋いでいかないといけませんね。

ありがとう、徳川家康! ありがとう、山岡荘八さん!

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