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館長のふゆきです。
今日の夢中は、徳川家康(23)蕭風城の巻!家康と且元、家康と幸村、対照的な2人と大坂の陣…です。
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■あらすじ
徳川と豊臣の和合に向けて、ついに実現した徳川家康と豊臣秀頼の二条城会見。
しかし、大坂方にはなお不穏な動きは消えず、諸国の牢人は続々と大坂城下に集まっていました。
このままでは徳川と豊臣の間で戦になる…。そう危惧した家康は「強いて難題を持ちかける」決断をします。
世に言う「方広寺鍾銘事件」。方広寺の鐘に刻まれた銘文のなかにある「国家安康」「君臣豊楽」の文字が徳川家を呪詛するものとし、豊臣方の態度変更を迫ったのです。
曰く、「国家安康」は家康の名を分断して調伏をめざすもの、「君臣豊楽」は豊臣家の世の繁盛を祈るものと…。
慌てた豊臣方は、重臣の片桐且元が釈明に奔走しますが、戦の回避のために家康が求める大阪開城は成りませんでした。
そして家康の戦乱回避の思いむなしく、徳川と豊臣の合戦「大坂の陣」がはじまるのです…。
■対照的な2人
時代小説史に残る名著、山岡荘八「徳川家康」全26巻。
第23巻「蕭風城の巻」では、大坂の陣に至る緊迫した駆け引き…方広寺鍾銘事件などが描かれます。
徳川と豊臣の和合をめざした家康の思いむなしく、両者の戦いは避けられない状況に至ります。
この巻では、「大坂の陣」へとつながる、徳川と豊臣の対照的な2人の振舞いが2つ、象徴的に描かれています。
一つは、徳川家康と片桐且元。両者の豊臣秀頼への対し方が対照的です。もしくは対照的なものに変わりました。
家康は、大坂方に業を煮やし、秀頼を「向後は大人として扱うぞ」と言葉を発します。それまで家康は秀頼を子ども扱い…大目に見てきました。
しかし、その結果が大乱の芽を生むに至り、ついに方広寺鍾銘にかこつけて、豊臣家に大坂城を出ることを求めたのです。
一方、且元は秀頼を「大人」として扱いませんでした。彼にとって秀頼は、成人してもなお、かつての主君・秀吉の「子ども」だったのです。
だから家康の強硬な態度を見ても、秀頼に大事を打ち明けず、自らで収めようとしました。鍾銘事件が起きても「問題は鍾銘ではなく移封なのだ」と分かっていながら口にしませんでした。
結果、それは最悪の事態を招きます。追い詰められた且元がそれを告げたときは時すでに遅し、主戦論を助長するだけでした。しかも、それは且元追放につながるのです…。

(真田の家紋・六文銭/写真ACより)
もう一つが、徳川家康と真田幸村。両者は、泰平の世を実現できるか否かで、大きく考え方が異なりました。
家康は、戦のない泰平の世は実現できると信じ、あるいは自らが実現するという気概をもって、これまで幾多の苦難を乗り越え、天下人の座に就きました。
方広寺鍾銘の難題も、豊臣家を滅ぼさんとするものではなく、大乱の元となる大坂城から切り離そうというもの。すべては泰平の世のため…それが家康の信条であったと言えます。
一方の幸村は、「泰平は仮の姿、この世は弱肉強食ゆえ人間と戦争は絶対に縁の切れるものではない」と父昌幸から注ぎ込まれました。
そして、幸村は豊臣方への参陣を決意すると、わが子・大助に語るのです。「この世にそう易々と泰平など続くものではない」。続けて「時々これを戦というふるいにかけて揉んでやるのだ」と。
言ってみれば、戦に対する無常観のような考え方…。人間は戦をしては泰平を願うという「愚かさ」と縁を切れないと幸村は言うのです。
そして迎える大坂冬の陣。泰平の世は実現できるのか、戦を無くすことはできないのか…。
さまざまな思いをのせて、徳川と豊臣がついに対決することになるのです。はたして戦いの行方は?