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館長のふゆきです。
今日の夢中は、決戦!承久の乱…その勝敗を決したものは何か?永井路子「つわものの賦」より…です。
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(承久の乱激戦の地・京都宇治川)
■承久の乱
承久3年(1221年)に起きた「承久の乱」…。
それは、日本史上初となる朝廷と武家政権との戦いでした。
3代将軍・源実朝の暗殺に端を発して、京の朝廷と鎌倉幕府との緊張が一気に高まります。
京の朝廷は、内諾していた親王の鎌倉下向を拒否。幕府との対決姿勢を鮮明にしました。
朝廷のトップ・後鳥羽上皇は、幕府に近い公卿らを粛清、独自に西面武士を組織するなど、決戦に向けた準備を着々と進めました。
そして承久3年(1221年)ついに挙兵…。執権・北条義時追討の院宣を発しました。
一方、鎌倉では、動揺する御家人たちに対し、北条政子が鎌倉創設以来の頼朝の恩顧を訴える演説を行います。
これにより御家人たちに迷いは無くなりました。俺たちが築いた鎌倉を守ろう!いざ西国との決戦へ。
幕府軍は、東海道、東山道、北陸道の三方から京に向けて進軍を開始します。
北条泰時・時房らを大将軍とする幕府軍は道々で兵力を増し、最終的には19万騎に膨れ上がったと言います。
幕府軍の出撃を予測していなかった朝廷側は狼狽。慌てて迎撃の兵を出しますが、幕府軍に粉砕されます。
そして出撃からわずか22日のうちに、幕府軍は京に到達。最終決戦地の宇治川を突破すると、幕府軍は京に雪崩れ込みました。
後鳥羽上皇は幕府軍に使者を送り、この合戦は謀臣の企てであったとして、全面降伏とも言える院宣を出します。
こうして、史上初の朝廷と武家政権の戦い「承久の乱」は、鎌倉武家政権の勝利に終わりました。
■つわものの賦
「承久の乱」の勝敗を決したものは何だったのでしょうか。
幕府軍の戦術か、北条政子の演説か、はたまた後鳥羽上皇の傲慢か…。
これについて、作家の永井路子さんが著作「つわものの賦」で、興味深い見解を示しています。
それは、乱に先立つこと2年…。北条義時が下した決断が、勝敗の帰趨を決したというものです。
承久の乱の2年前…。それは、源実朝暗殺という鎌倉最大の悲劇から間もない時期でした。
事件後ひと月あまり経ったとき、京の後鳥羽上皇から弔問の使いが鎌倉にやって来ます。
使者は、一通り弔辞を述べた後、後鳥羽上皇の申し入れを伝えます。
「事のついででありますが、摂津国の長江荘と倉橋荘の地頭を交替させよ、という院の御意であります。よろしくお取り計らいを」。
地頭の任命権は、頼朝以来の幕府の専決事項です。
後鳥羽上皇は、鎌倉の動揺を見越して、ゆさぶりをかけてきたのです。
しかも、西国側にはもう一つの切り札がありました。将軍の後継者です。
地頭を交替させないなら、将軍後嗣として親王を送らない…。すでに内諾していた親王下向の破棄をちらつかせて、鎌倉側に要求を飲むように迫ったのです。
後継将軍か、地頭か…。鎌倉の運命を左右する選択に対して、北条義時が決断を下します。
それは、地頭の任命権を決して譲らないという決断でした。義時は、後鳥羽の恫喝のような要求をはねのけたのです。
■義時の決断
実朝を失った北条氏にとって、後継の親王将軍は、何としても欲しい「権威」でした。
しかも、後鳥羽上皇の要求を拒否することは、その「権威」の最高位から睨まれることになる…。
いわゆる「政治的配慮」を考えると、「今回だけは特に」と妥協してしまいそうですが、義時は妥協しませんでした。
それはひとえに、義時が東国の御家人の利益を最優先に考えたことにあります。
永井さんは、その決断について、次のように評します。
「義時がここで西国のトップと取引せず、御家人の利益をまず前提に考えたところに、私は東国そのものとぴったり密着した彼の姿勢を感じる」。
東国武士にとって、土地に対する意識は特別でした。
「御恩と奉公」という主従関係は、この土地を介した現実の利益の保証という裏付けによって機能していたのです。
義時は、東国武士の気持ちをよく知っていました。彼は現場感覚を失っていませんでした。永井さんは、続けて指摘します。
「義時が東国武士団の利害を直接吸いあげることができたところに、彼のすぐれた政治的資質がある」。
この東国武士第一の政治方針が、いざ西国との決戦に至ったとき、東国武士たちに鎌倉方を選択させました。
「もしここで義時が失われれば、地頭職を守ってくれる人はいなくなるぞ」。彼らは鎌倉幕府への忠誠を誓ったのです。
■新しい時代へ
永井さんは、頼朝挙兵以来の東国武士の蜂起を「西国に対する東国の独立戦争」と称しています。
これまで西国から不当な賦役を強いられてきた東国…。それに対して、地頭の任命権など独立的な権限を勝ち取ったのが源頼朝でした。
その頼朝の政治を受け継いだのが北条義時です。義時は、決死の思いで手にした独立を、政治的妥協などで手放すことはありませんでした。
なぜなら、彼自身が東国武士だからです。義時は、これまで西国から不当な扱いを受けてきた東国武士団のパワーを汲み上げ、西国との一大決戦に臨みました。
永井さんは、このときの東国の蜂起について、「長い関西圏の植民地として無言の奉仕を続けてきた彼らは、ここにはっきりと、みずからを歴史の上に位置付けた」と指摘します。
そうです…。承久の乱は、「西国対東国の対決」であると同時に「古代と中世の対決」でした。
川の流れにたとえれば、流れに逆らって元に戻そうとする朝廷・後鳥羽と、流れに乗って新たな時代を築こうとする鎌倉・義時…。
どちらに勢いがあるかは明らか…。結果として、ときの加勢を受けた義時が後鳥羽を破り、新しい時代を切り開きました。
永井さん曰く「大きな変革の時代」。勝利を掴んだのは「東国-すなわち新しい歴史の担い手たち」でした。
新たな時代を開いた鎌倉幕府はこの後、100年続いていくことになるのです。
ありがとう、永井路子さん! ありがとう、「つわものの賦」!