北条泰時の母は八重だったのか?謎多き八重に迫る「鎌倉殿と執権北条氏」

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今日の夢中は、北条泰時の母は八重だったのか?謎多き八重に迫る「鎌倉殿と執権北条氏」です。
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■鎌倉殿と執権北条氏

今日は、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で重要な役割を果たした女性を取り上げましょう。
源頼朝の最初の妻にして、後に北条義時の妻…。新垣結衣さんが演じた「八重」という女性です。

この八重がどれだけ重要な人物だったか、ドラマの最終回を見たら明らか。
物語のクライマックスで、「八重」の名前が出てきます。そう、この人がいなければ、鎌倉の希望となる北条泰時は生まれませんでした。

ただ、ドラマファンには大変申し訳ないのですが、八重が北条泰時の母であることを記した史料はありません。
また、義時と八重が結婚したという史料もなく、それは俗説として多くの専門家から退けられているのです。

ただ、大河ドラマの時代考証を務めた歴史学者・坂井孝一さんは違います。
独自の視点から当時の資料を細かく分析。著書「鎌倉殿と執権北条氏」のなかで「泰時の母は八重だった」という説を展開しています。


鎌倉殿と執権北条氏

果たして八重は、北条義時の妻だったのか?そして、後に名宰相となる北条泰時の母なのか?
今日は、坂井孝一さんの「鎌倉殿と執権北条氏」から、謎多き八重という女性の真相に迫ります。

■伊東祐親と八重

はじめに八重という女性ですが、伊豆国伊東庄を収める豪族・伊東祐親の娘とされます。
この祐親のところに、流人・源頼朝が預けられたことから、彼女の人生の歯車が大きく動き出します。

祐親が大番役で上洛している間に、八重は頼朝と通じ、やがて男児・千鶴をもうけます。
京から戻ってきた祐親は、これを聞いて激怒。家人に命じて千鶴を殺害すると、八重を小豪族・江間次郎に嫁がせました。

これだけ見ると、祐親はとんでもない極悪人のように見えますが、坂井さんはその見方を否定しています。
祐親は平家の家人でした。だから、平家に敵対する源氏の嫡子・頼朝の監視役となったのですが、その娘が源氏(しかも流人)の子を産むというのは、とても許されるものではありませんでした


(伊東祐親像/伊東市)

実際に、後の頼朝も、義経の妾で懐妊していた静を鎌倉に連行し、生まれた男児を殺しています。
曰く「敵対者の子が男であれば、嬰児、幼児であっても命を奪うことが常であった/千鶴殺害は平家家人の祐親にとっては不可避の選択だった」。

一方、江間次郎に嫁がせた理由についても、独自の見解を述べられています。
再嫁先の江間は、川を挟んだ北条の対岸の地でした。北条時政には八重の異母姉が嫁いでおり、いわば親戚筋にあたります。

しかも、小豪族の江間次郎は、隣人北条の親戚にして勢威ある祐親の娘を喜んで迎えたことでしょう。
曰く「傷心の娘に対する祐親の心遣いが垣間見える。要するに、八重の江間再嫁は、平家への聞こえを怖れる祐親が、悲嘆にくれる娘に対し父親として示し得るギリギリの落としどころだった」。

■八重は北条泰時の母だったのか

この辺りの伊東祐親と八重に関する見解だけでも、すでに面白いですよね…。
さすがは坂井さん…。当時の公的な史料が乏しい中で、物語類などからも「状況証拠」を積み重ねる形で、説得力あふれる推論を提示しています。

同じ手法で導き出した仮説が、八重と北条義時が結婚して、2人の間に泰時が生まれたというものです。
名宰相と言われた泰時にしては不思議なことに、母に関する史料がありません。一部に記録が残るのは、母の名が「阿波局」という御所に務める官女であったということ…。

北条義時と結婚した?失恋して入水自害した?伊豆に残る「八重姫伝説」ゆかりの地へ

 

果たして、八重は北条泰時の母だったのか?坂井さんが積み重ねた状況証拠は次のようなものです。
まずは、当時の伊東氏を取り巻く環境の変化。江間に再嫁した八重ですが、その後まもなく事態が急変します。

頼朝の挙兵が成功して、平家方の伊東祐親・祐清(八重の兄)は捕縛、江間次郎は討死しました。このとき八重は江間の地で身柄を確保されたと考えられます。
祐親・祐清父子は三浦一族に召し預けられました。八重も「頼朝の計らいにより三浦に預けられたと考えるのが自然である」。

また、なんと言っても八重は頼朝の前妻でした。頼朝が八重を近くに置きたいと考えた可能性は十分あります。
ただ、政子の手前、妾にはできません…。そこで「官女に取りたて、阿波局を名乗らせたのではないか」。

一方、政子のほうは、いくら官女とはいえ、前妻が頼朝の近くに仕えるのは面白くありません。頼朝は女癖が悪いので、心配でもあります。
しかし「八重が再び誰かの妻になれば話は別」です。最も信頼できる相手として、弟の義時に白羽の矢を立てたとしてもおかしくありません。


北条政子/永井路子

さらに、頼朝はこの頃、盛んに結婚の仲介に乗り出し、自分が結節点となった身内派閥を形成しています。
身内のいない頼朝にとっては東国で生きる保身策でもありました。だとすれば、前妻・八重と義弟・義時の結婚は「頼朝も賛成せざるを得ない」ものだったでしょう。

このような状況証拠から坂井さんは言います。「かくして頼朝と政子により、八重と義時の結婚話が進められることになったと考える」。

■八重から義時、そして泰時へ

なかなかに説得力がありますよね…。確かに状況証拠は、義時・八重夫婦説をあり得るものと示しているように思います。
でも、一方で反論もありますよね…。まず思い付くのは、なぜ諸史料が、義時の最初の妻、泰時の母を「八重」と明示しなったのか…。

これについて坂井さんは、八重が自分の産んだ頼朝の子・千鶴を、実の父・祐親に殺されていることを挙げます。
曰く「中世の人々からすれば、極めて不吉な凶事に他ならない。八重が、幕府内で権力を握る北条氏と密接な関係にあったと明示するのは憚られたのではないか」。

一方で、泰時の母として記される「阿波局」という女房名は、後に義時の妹も名乗っています。もちろん、2人は別人です。
これについても坂井さんは、「彼女(八重)が死去したため、義時の妹が阿波局の名を、いわば継いだのであろう」と指摘します。さまざまな女房名があるなかで、わざわざこの名を称したのは「兄の亡き妻の大切な名を継いだ」のではないかとも…。

これはなかなかに興味深い仮説です。やはり、北条泰時の母は八重だったのでしょうか…。
たしかに、泰時は、元服時に頼朝の「頼」を賜り、一時「頼時」を名乗るなど「頼朝が特別扱いしたのは事実」であり、それも前妻・八重の産んだ子だったからとすれば納得がいきます。

また、八重が泰時の母だったとすれば、彼女は伊東家の嫡流として高い教養を持っていたはずですから、泰時に質の高い教育を施した可能性があります。
しかも八重は、わが子・千鶴を不幸にも亡くしています…。彼女は泰時を一層の愛情をもって養育したのではないでしょうか。
後に泰時は執権となって粛清の血が流れない平和な治世を実現しますが、それはもしかしたら、幼少期を共に過ごした母・八重の影響かもしれません…。



鎌倉殿の13人メモリアルブック

八重から義時、そして泰時へと、希望は繋げられました…。
大河ドラマの裏テーマとも言えるようなメッセージを、本書の仮説から受け取ることが出来たように思います。

本書にはまだまだ知られざる仮説がいっぱい。「鎌倉殿の13人」ロスでしょげてる場合じゃない。
鎌倉殿をもっと知りたい人は、ぜひ本書「鎌倉殿と執権北条氏」をご一読ください。

ありがとう、坂井孝一さん! ありがとう、「鎌倉殿と執権北条氏」!

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