戦国最大の逆転劇はなぜ起きたのか?歴史人「桶狭間の戦い」

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こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

今日の夢中は、「歴史人」2018年10月号の特集「桶狭間の戦い」です。

■歴史人

桶狭間の戦い
言わずと知れた、織田信長の躍進のきっかけとなった、戦国史に刻まれる一戦です。

ときは1560年5月19日。場所は桶狭間。
わずか2000の織田信長が、2万5000もの大軍を擁する今川義元を打ち破りました。

戦国史最大の逆転劇はなぜ起きたのか?
雑誌「歴史人」の2018年10月号は、「桶狭間の戦い」を徹底分析です!


歴史人 10月号

■桶狭間の奇跡はなぜ起きたのか

「街道一の弓取り」と称された、名門今川氏の当主・義元。
対するは、織田家の家督を継いだばかりの「尾張の大うつけ」信長。
両雄の決戦は、誰もが想定しない大逆転劇を生み、戦国時代を震撼させました。

戦国史に残る「桶狭間の奇跡」はなぜ起きたのか。
本誌は、詳細な文献等の調査に基づき、奇跡に至る「真実」を詳らかにしています。
相変わらず読み応えあるなぁ、歴史人。今日は、その中から個人的に興味深く感じた頁を取り上げます。


信長の野望 大志(㎰4)

まずは、「織田信長VS今川義元 徹底比較!」
実はこの両者、年の差が15歳あります。桶狭間の戦いのときには、義元が42歳、信長が27歳でした。
キャリアの差は歴然。すでに駿河・遠江・三河の参加国を領有する義元に対し、信長は尾張一国をようやく治めるに過ぎませんでした。

ただ実は、両者の国力はほぼ拮抗していたと、本誌は指摘します。
後に行われた太閤検地の資料によると、今川3か国と織田尾張1国の石高にほとんど差がありません。
確かに面積が全てじゃないもんね。キャリアはともかく、国力が同じくらいなら、世に言われるほど圧倒的な力の差ではなかったのかもしれませんね。

■最強親衛隊

続いて興味を引かれた記事は「織田軍最強!信長親衛隊の秘密」
織田軍2000に対し、今川軍2万5000。この絶望的な兵力差を埋めたのは、信長の少数精鋭の旗本だった…。

そもそも今川が2万5000人と言っても、純然たる侍はその1割程度と言われます。残りは百姓たち。
一方、信長はいち早く兵農分離を進め、専門武士を養成していました。

特に重用したのは、在地領主の次男以下のめぼしい人材。
家督を継げない優秀な次男坊、三男坊を抜擢して、直属の「親衛隊」として専業武士に鍛え上げました。
その中には、前田利家や佐々成政ら、後に名を知られる猛将たちもいます。

彼らが一騎当千の活躍をしたことが、桶狭間の奇跡につながったのは容易に想像がつきます。
これも、出自や前歴を問わず、能力主義で人材を採用した信長の才能かもしれませんね。

■「義元は輿に乗っている!」

そして、やはりこれか!「信長の情報戦略」
自軍の情報を隠し、敵の情報は徹底調査。信長は情報を操る天才だった…。

桶狭間の戦いは信長の情報戦略の勝利だったと本誌は指摘します。
そもそも「うつけ」を演じたのも、敵を油断させる情報戦術だったという説もあります。
桶狭間の戦いでも、信長の手足となった諜報部隊が今川氏の動向を探り続け、正確な情報を送り続けました。

しかも当日の戦を勝利に導いたのは「義元は馬ではなく輿に乗っている」という情報でした。
その結果、信長らは輿のあるところを集中的に狙うことができたと思われます。
一方で義元は…。情報収集に対する意識の差が勝敗を分ける。いまの時代にも通用する真理かもしれません。

その他にも、信長の奇襲は、定説で言われているような「う回奇襲」ではなく「正面突破」であったことや、当時は義元方に付いていた家康から見た桶狭間とか、興味深い記事がいっぱいです。

歴史ファンならずとも楽しめる一冊なんじゃないかしら。
「歴史人」10月号。桶狭間の真相を知りたいなら、ぜひ手に取ってみてください。

ありがとう、歴史人! ありがとう、桶狭間!

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