こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。
今日の夢中は、司馬遼太郎の名作「峠」です。
■命日
今日10月1日は、越後長岡藩士、河井継之助の命日です。
江戸末期を生きた武士で、戊辰戦争最大の激戦と言われる北越戦争において、長岡藩を指揮して戦いました。
司馬遼太郎の「峠」は、この河井継之助の半生を描いた、長編時代小説です。
河合継之助の師である山田方谷が、彼を評してこのように言っています。
「どうも河井は豪(えら)すぎる。豪すぎるくせにあのような越後のちっぽけな藩に生まれた。その豪すぎることが、河合にとり、また長岡藩にとり、はたして幸福な結果をよぶか、不幸をよぶか」
■あらすじ
方谷の言葉が示すように、この小説「峠」では、河井継之助の生き様と長岡藩の行く末が描かれます。
文庫本では、上巻511頁、中巻571頁、下巻445頁にも及ぶ長編小説。
前半では、越後長岡藩から江戸や諸国へ留学の旅を通じて、時代の動きに知悉していく継之助の姿が描かれます。
ときは幕末。時代は風雲急を告げていきます。後半は、そのような中で藩の要職に抜擢された継之助の奮闘が描かれます。
先見の明ある継之助は幕府の崩壊を予見しますが、越後長岡藩主牧野家は古くから徳川家に仕える譜代大名です。
時代の流れを止められないことを知りながらも、武士としていかに責を全うするか。危機に瀕する長岡藩を救えるのか。
作者が日本の美しき武士の「典型」と評した、最後のサムライ河井継之助がとった行動とは…。
■ところがここにいる
実は、この本を読むまで、河井継之助という人物を知りませんでした。
幕末維新期はどうしても薩長に焦点が当たりますが、旧幕府のしかも越後の地にこれほどの傑物がいたというのは正直驚きです。
継之助は、小藩の越後藩に生まれながら、近代的合理主義を持ち、きわめて正確な時代認識と将来を見通す先見性を持っていました。
彼は、幕府側にして異例なほど早い段階から、兵器の西洋化を推し進めます。
しかもそのやり方もダイナミック。最新の兵器を手に入れるために、歴代君公ゆかりの宝物・什器を惜しみなく売り払います。
義兄・椰野はそんな継之助をたしなめます。
それは両刀が重いから売ってしまえというようなものだ。そんな暴論を吐くものはあるまい?
「義兄さ、ところがここにいる」継之助は笑いもせずに言った。
「わしはな、長岡藩の武士どもには刀を差させまいと思っているのだ」
「継サ」椰野は叫んだ。「刀は武士の魂ではないか」
「倫理道徳は、時勢によって変わる」
■愛想もつきのすけ
また、彼は徳川方に属していながらも、対峙する薩長がいずれ幕府を凌駕することを予見していました。
薩長との戦争が待ったなしの状況になると、支藩の人びとには「薩長に従え」と言い放ち、驚かせます。
継之助のすごいところは、単に言葉で言うだけでなく、それが実行力を伴っているところにあります。
彼が藩の要職につくと、数々の藩政改革を断行します。
先述の兵制改革だけでなく、農政改革や賭博禁止などの風紀の粛清も断行します。
英雄色を好むではないですが、大の遊郭好きだった継之助ですが、藩の風紀粛清のために遊郭の禁止令を発すると、自らも律します。
そのせいで、彼を揶揄した「かわいかわい(河井)と今朝まで思い 今は愛想もつきのすけ(継之助)」という歌が詠われました。
■享年41歳
継之助という人物の大きさは、山田方谷のみならず、福沢諭吉や福地源一郎らの幕府要人、さらには外国商人までもが賞嘆しています。
日本きっての開明の士でありながら、旧幕藩体制の守護神かのように新政府軍と戦わざるを得ない矛盾。
それは維新史上、最も激烈な北越戦争を生むことになります。
この物語を読んで、誰もが思うはず。河井継之助が生き延びていてくれてたら…。
西郷・大久保らの英雄の蔭にあって、一般には知られていない幕末の英雄、河井継之助。
1868年10月1日(旧暦では8月16日)、41歳でその生涯を閉じました。
ありがとう、峠! ありがとう、河井継之助!