「歴史人」豊臣兄弟の真実!秀吉を天下人にした真の功労者。最強のNo.2・豊臣秀長の生涯に迫る

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館長のふゆきです。

今日の夢中は、「歴史人」豊臣兄弟の真実!秀吉を天下人にした真の功労者。最強のNo.2・豊臣秀長の生涯に迫る…です。
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■歴史人

いつも歴史ファンにたまらない情報を届けてくれる「歴史人」
2026年2月号は、やっぱり来ました、2026年大河ドラマの主人公とその時代を取り上げる特集…。

それが、保存版特集「秀長とは何者か? 豊臣兄弟の真実」です。
"2026年大河ドラマ「豊臣兄弟!」主人公・豊臣秀長のすべてがわかる"と銘打つ一大特集です。

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たしかに、豊臣秀吉は知っていても、その弟・豊臣秀長のことをよく知らない人は多いのではないでしょうか。
実はこの人、秀吉の弟として生まれ、立身出世をともにし、天下統一を陰で支えた「最強のNo.2」とも称される傑物なのです。

そんな「最強の補佐役・豊臣秀長の実像」に迫る特別座談会から、特集がスタートします。
この座談会も最強…。数々の大河ドラマで時代考証を担当してきた3人の専門家、黒田基樹さん、柴裕之さん、平山優さんが対談しているのです。司会は、歴史系YouTuberのミスター武士道さん。

黒田「秀長は優れた大将であると同時に取次・指南役としても活躍しました」
柴「秀長の存在が全軍の精神的支柱になっていたわけです」
平山「秀長は秀吉本軍の後方支援も担い、道の整備などもこなしていました」
武士道「秀長のような優秀な弟がいた秀吉はラッキーでしたね」

そんな歴史の専門家たちから絶賛される武将・豊臣秀長。その実像に迫る一大特集が「秀長とは何者か? 豊臣兄弟の真実」です。
これは、大河ドラマファンならずともページをめくりたい…。今日の夢中は、歴史人の誌面から、大河ドラマの主人公・豊臣秀長の生涯を追いかけます。

■生誕と家族の謎

誌面を開くと、さすがは歴史の専門誌「歴史人」。誌面にこってりと「豊臣秀長」特集が並んでいます。
「秀吉と秀長の人生年表&人物相関図」「秀吉・秀長兄弟が示した卓越した才能とは?」「交友関係からみる秀長の人物像」などなど。

その中から、この特集記事に注目しました。「謎に包まれた豊臣秀長の生涯」。天下統一の成就と共に世を去った52年の生涯をひもとく、という言葉が冠されています。
秀吉の天下取りを支えた最大の功労者ながらも、実は謎の多い豊臣秀長。その生涯を最新の研究をもとに解き明かす特集から、その人物像を探っていきましょう。

まずは「秀長の生年・生誕地」。秀長は、天文9年(1540年)3月、尾張国中村(愛知県名古屋市中村区)で誕生したと言われます。
兄・秀吉の3歳下、通説では異父兄弟と言われてきましたが…。近年では、同父兄弟である可能性が高いと考えられているそうです。

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しかも、その父・竹阿弥(弥右衛門)は、貧農ではなく、武家奉公を行う上層の百姓であったと考えられるのだとか。
そうなんだ…。だとすれば、2人とも子供のときある程度の教育を受けていた可能性が高いですね。ただ、竹阿弥が死んだことによって家は傾き、秀吉は様々な職を転々として生きていくことになります。

そして「家族構成」ですが、秀長には兄・秀吉のほか、姉一人と妹一人がいました。
姉「智」(瑞龍院)は、のちに秀吉の養子となる秀次の生みの母。妹「朝日」は、兄秀吉の命により徳川家康に再嫁する人物です。全員、秀吉に巻き込まれてますね…。

さらに、姉・瑞龍院は秀長にもわが子を養子として送っており、これがのちに秀長の嫡男・秀保となります。兄弟2人とも姉の子を養子に迎えたんですね…。
なお、秀長の正室は家臣・神戸秀好の娘とされる人(慈雲院)で、二人の間には男子がいましたが、若くして早世したといわれます。

■信長の馬廻衆から秀吉の補佐役へ

さて、秀長がすぐに兄・秀吉の側近となったかというと、そうではないみたい。秀長が史料に登場するのは天正元年(1573年)8月のこと。
このとき、彼は織田信長の直臣として活動していたことが伺えます。さらに翌年の長島一向一揆では、信長本隊の馬廻衆(親衛隊)筆頭を務めるほど、秀長は信長から重用されました。

そして天正3年、秀長は信長の馬廻衆を離れ、兄秀吉の麾下に配属されます。ここから秀長の名補佐役人生がはじまります。
秀長の補佐は、北近江の統治から北陸攻めや丹波平定など、内政から外政まで多岐にわたりました。信長横死後の山崎合戦では、天王山を制するなど勝利に貢献。清須会議後の不和に乗じた実質的なクーデターも陰で支え、秀吉の天下取りを後押ししました。

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特に、優れた手腕を発揮したのが、諸大名との外交でした。未だ基盤の脆弱な豊臣政権において、秀長は諸大名との折衝に力を尽くします。
九州の大友宗麟が上阪した際は、「内々の儀は千利休が、公儀のことは秀長が担う」と話しており、豊臣政権の大名統制の権限を秀長が担っていたことが伺い知れます。

その九州征伐でも功を挙げた秀長は、天正15年8月、従二位・権大納言に叙任されます。秀長は名実ともに、豊臣一門の筆頭となりました。
その頃には、秀吉は自らの後継として弟秀長の名を挙げていたと言われます。しかし、そんな秀長を突如、病魔が襲います。

秀吉による病気平癒の祈願も実らず、秀長は天正19年1月、居城の大和郡山城で死去しました(享年52)。
その後の秀吉の迷走ぶりは歴史が示すところ…。同じく側近の千利休に切腹を命ずると、甥で養子の秀次を謀反の容疑で切腹させます。さらに無謀とも言われる朝鮮出兵へと突き進むのです…。


「もし彼がもっと長生きしていれば、豊臣の天下は続いていたのではないか―。」
そんな戦国ファン誰もが抱く「if」の主役こそ、豊臣秀頼の弟・豊臣秀長です。偉大なるNo.2、歴史に残る名参謀。果たして、大河ドラマではどのように描かれるのでしょうか…。

今日の夢中は、「歴史人」豊臣兄弟の真実!秀吉を天下人にした真の功労者。最強のNo.2・豊臣秀長の生涯に迫る…でした。
ありがとう、歴史人! ありがとう、特集「豊臣兄弟の真実」!

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