司馬遼太郎「義経」!悲劇の英雄・源義経はいかに戦い、いかに滅びたのか

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

今日の夢中は、司馬遼太郎さんの長編時代小説「義経」です。

■あらすじ

源氏の棟梁である源義朝の子、源義経
生まれて間もなく、父義朝が平家に敗れ命を落とすと源氏は没落、自身も鞍馬寺に預けられます。

長じて元服した義経は京を出奔し、奥州に逃れて藤原氏の庇護を受けながら、平家への復仇の機会を伺います。
そんなときに、兄頼朝が伊豆で平家打倒の兵を挙げます。義経は、武蔵坊弁慶など少数の郎従を率いて、兄頼朝のもとに駆け付けました。


(義経・弁慶主従の像/藤沢白旗神社)

義経は、同じ源氏の血を引く兄弟として頼朝を敬愛しますが、東国武士団の棟梁として地固めを進める兄頼朝は、義経を家人として扱います。
義経はその意識の隔たりに戸惑いながらも、頼朝の西国攻めに勇んで出陣します。

義経は、天才的な軍略を発揮して、まずは木曾義仲を討ち取ります。
さらに宿敵平家を、一ノ谷の戦い、屋島の戦いで相次いで撃破。ついに壇ノ浦で平家を討ち滅ぼし、宿願を果たしました。

一躍英雄となった義経を京洛は熱狂をもって迎えますが、兄頼朝の冷遇は変わりません…。
むしろ警戒を強めた頼朝は、ついに義経誅殺を決断します。果たして、義経の運命は…?

■軍事の天才

源平合戦の時代を駆け抜けた武将、源義経
天才的な軍略で平家を滅亡に追い込みながら、兄頼朝との確執から命を落とした悲劇の武将です。

その鮮烈な生涯を、歴史小説の大家・司馬遼太郎さんが小説「義経」に描き切りました。
「オール讀賣」誌上で2年超にわたり連載された小説。単行本では上下2巻の長編小説です。


義経(上)

ストーリーは、大きく3つに分かれます。
鞍馬から奥州へ雌伏の時を過ごした幼少期。頼朝挙兵に応じ義仲・平家との合戦に臨んだ青年期。そして、頼朝との確執が表面化する晩年期。

特に、物語の山場となるのが、義経が天才的な軍略を発揮する源平合戦のシーンです。
一ノ谷の戦いでは、「鵯越の逆落とし」と呼ばれる奇襲を敢行。70騎を率いて断崖絶壁を駆け下り、空前の勝利を挙げました。

個々の武者同士のぶつかり合いが常識である当時に、義経は騎兵部隊による長駆の奇襲という前代未聞の戦術を用いました。
その後も桶狭間以外に近代まで例がなく、司馬さんも「明治よりはるかな以前に近代戦術思想の世界史的な先駆をなした」と賞嘆します。

さらに、屋島の戦いでは、暴風雨のなか出航を強行し、摂津(大阪)から阿波(徳島)に渡ると、平家の本営・屋島を急襲しました。
これも、戦線が膠着する中で「屋島を衝けばいいではないか」という着想とそれを実現する戦術が、この時代で抜きんでていました。


(壇ノ浦古戦場)

そして源平最後の戦いとなる、壇ノ浦の戦い。源平合戦のクライマックスにして、最大の激戦と言えます。
平家を率いる平知盛との駆け引きは手に汗を握ります。帰趨を握るのは潮の流れ…。早期の決着を仕掛ける知盛、耐えて挽回を期す義経…。
この戦いも、義経の戦術が勝りました。敗北を覚悟した知盛ら平家一門は海に身を投げ自害。平家は滅亡しました。

■政治の痴呆

軍事にかけては、歴史上類まれな才能を発揮した源義経。
しかし彼は、政治については、信じられぬほど無能でした…。

さすがの司馬さんも、平時における義経の数々の失態に呆れています。
曰く、「義経は、一種の痴呆であっただろう」。かつて、「痴呆」と称される武将を主人公とした物語があったでしょうか…。

さらに「信じられぬほどに痴呆な政治的無感覚者」と、辛辣な表現が続きます。
ただ、そう言いたくなるほど、義経の行動は残念きわまりありません。許しがたいものもあります。


義経(下)

たとえば、壇ノ浦で捕らえた国母・建礼門院の屋形に忍び込み、平家一門が沈む海の上で犯しました。
「廷尉(義経)、不義あり」と、梶原景時が鎌倉に急報したのも当然でしょう…。

さらに京に凱旋するや、捕虜とした平家重臣の美人娘を見染めると、自身の妻にしてしまいます。
敵方平家の娘婿になっちゃったんですね…。これには、噂好きの京者も眉をひそめ、何よりも源氏の諸将が憤慨しました。

もともと戦場で独断専行が目立ち、横柄な態度で不評を買っていた義経。
しかも、戦果は全て自分一人の手柄と吹聴していました。これで源氏の諸将たちから総スカン状態となりました。

頼朝も憤慨し、そして緊張しました。義経は平家と姻戚になることによって、その潜在勢力を利用し、ゆくゆくは鎌倉の兄と対決するつもりであろうと…。
しかも義経は後白河法皇の位打ちに遭い、造作もなく、その掌中に取り込まれていました。

そして頼朝の命令が発せられます。「こののち、鎌倉の侍たる者、義経に従ふべからず」
事実上の義経との縁切り宣言。鎌倉方の総帥・頼朝は、敵方の西国に取り込まれた義経を許すわけにいきませんでした

事ここに至っても、義経の政治的痴呆は止まりません…。
自分は平家を滅ぼしたのだから、兄は喜んでいるはずだ。兄弟じゃないか。同じ朝臣じゃないか。兄と話せばわかるはず…。


(腰越状/満福寺)

そして無為無策のまま、のこのこと鎌倉の腰越までやって来て、兄頼朝から「鎌倉に入るべからず」と追い返されるのです。
その後の義経の運命については、多くの人が知るところ。司馬さんも、腰越以降については詳しく描いていません。

腰越の地で、英雄・義経の命運は尽きました。いや、もしかしたら壇ノ浦で、歴史上の役割を終えていたのかもしれません。
悲劇の英雄、源義経。ただ、その生涯は、悲しさよりも、哀れさを感じるものでした…。

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