歴史人「大坂の陣12の謎」!家康の狙いは?淀殿は悪女か?秀頼は秀吉の子か?

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館長のふゆきです。

今日の夢中は、歴史人「大坂の陣12の謎」!家康の狙いは?淀殿は悪女か?秀頼は秀吉の子か?です。
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■歴史人

いつも歴史ファンにたまらない情報を届けてくれる「歴史人」
2024年1月号は、大河ドラマ「どうする家康」ファンにはたまらない特集が組まれました。

それがこちら、保存版特集「大坂の陣12の謎」です。
ドラマでも家康の人生においても終盤のクライマックス「大坂の陣」。徳川対豊臣の最終決戦となった合戦です。


歴史人2024年1月号

後世にさまざまな伝説や風説を生むことになった大坂の陣。歴史人がさまざまな謎に迫り、その真相を解き明かしていきます。
徳川家と豊臣家との対立の歴史とは?秀頼・淀殿の実像は?真田丸の奮戦など合戦の実態は?秀頼生存説や家康死亡説の真偽まで…。

本誌で検証する謎の数は12。どんな謎があるのか、ざっと眺めてみましょう。

謎1:徳川家康は本当に豊臣家を滅ぼそうとしたのか?
謎2:豊臣恩顧の大名謎の死の真相
謎3:淀殿が「悪女」だったというのは本当なのか?
謎4:秀頼は秀吉の「実子」だったのか?
謎5:なぜ豊臣家は見限られたのか?
謎6:なぜ牢人たちは豊臣家に味方したのか?
謎7:なぜ「真田丸」は善戦できたのか?
謎8:家康は鉄壁の「大坂城」をどのように攻略したのか?
謎9:豊臣秀頼はなぜ出陣しなかったのか?
謎10:「豊臣大坂城」と「徳川大坂城」の秘密
謎11:豊臣秀頼と真田幸村は実は生きていた?
謎12:徳川家康は大坂の陣で討ち取られていたのか?

なんとも興味深い謎がならんだものです。その真相を知ったら、大坂の陣の見方が変わるかもしれません。
ひょっとしたらあの人物に対する見方も…?今日の夢中は、歴史人2024年1月号特集「大坂の陣12の謎」です。

■家康の狙いは?

12の謎ぜんぶを紹介したいのですが、ここでは中でも、特に個人的に興味を引かれた謎を取り上げましょう。
まずは、大坂の陣開戦に至る背景を探る謎、「徳川家康は本当に豊臣家を滅ぼそうとしたのか?」

徳川対豊臣…両者の対立を生んだとされる関ヶ原の合戦ですが、これはあくまで石田三成の逆心…。
家康は、表面上はそのように整理し、関ヶ原後に大坂城の秀頼を訪ねると、豊臣政権の五大老の一人として戦勝報告をしています。

しかし、家康が天下を窺っていたのは間違いないでしょう。朝廷に働きかけて、関ヶ原の3年後に武士の棟梁である征夷大将軍に任じられます。
ここで初めて家康は、武家としては秀頼と立場を逆転させました。以来、家康から秀頼に対面するということがなくなります。


(徳川家康像)

それでも家康は、豊臣家を滅ぼすまではせず、他の大名と同じように一大名として残す選択肢も模索していたと思われます。
実際に方広寺鐘銘事件のときは、和解策として秀頼の国替えという条件を出していますし、そもそも愛孫の千姫を秀頼に嫁がせています。

ただ、そうした家康にとっての譲歩策は、豊臣方にとっては強硬策にしか見えませんでした…。
交渉は決裂。ついに家康は豊臣打倒の兵を挙げます。最後は、秀頼と淀殿の助命嘆願を拒んで、豊臣家を滅亡させました。

本誌曰く「家康がいつごろから豊臣家を滅亡に追い込もうと考えたかは明らかではない」。
結果として徳川家のために将来の禍根を断つという判断になったのでしょう…。ただ、豊臣方としても家を残す方策はあったように思います。
家康の強い意志というよりは、豊臣方の自滅という面もあったことは否めない…。そんな風に思いました。

■淀殿は悪女か?

「豊臣方の自滅」があったとすれば、主犯として思い浮かぶのはこの方、淀殿でしょう。
続いて取り上げるのは、そんな淀殿の実態に迫る謎、淀殿が「悪女」だったというのは本当なのか

戦国・江戸時代の史料に淀殿はもっぱら「悪女」として登場。なかには寵臣・大野治長と密通したという疑惑も…。
本誌曰く、こうした淀殿「悪女」説は、徳川幕府が後世、主筋である豊臣家を滅ぼした引け目を隠蔽するために、創り上げたのではないかといいます。

ただ、秀吉なきあとの大坂城で、淀殿が事実上、最高意思決定権者であったのは間違いないようです。
これが豊臣家にとって不幸でした…。淀殿は政治を行う上ではまったくの素人。しかも、このとき頼るべき豊臣恩顧の有力武将は秀頼の側にいませんでした。


(イラストACより)

おそらく淀殿は、天下の趨勢が徳川家康に移った事実をどうしても理解することができなかったのでしょう。
家康側の譲歩とも言える、秀頼の上洛要請(秀忠への賀詞挨拶)も拒みました。家康は、ここで大坂討滅を決意したのかも…。

何しろこのとき淀殿は、しいて上洛を求めるならば、当時13歳の秀頼を手にかけて自らも死ぬと放言しています。
残念ながら、政治的な視点は不在、目に映る姿はわが子を溺愛する過保護な母親…。彼女には、気鬱(ヒステリー)の持病があったという史料もあります。
豊臣方の自滅を招いた女性…。「悪女」ではないにしても、そう言われてもしょうがないように思いました。

■秀頼は秀吉の子か?

そして、豊臣家最後の当主、秀頼。彼には常に、この疑問符がつきまといました。本当に秀吉の「実子」なのか
…というのも秀吉には数十年もの間、子供が生まれませんでした。なのに突然、子供を授かるというのは不自然じゃないか…。

秀頼の実父は別にいるのではないか…。そんな風説がまことしやかに世の中に流布しているのです。
果たして真相はいかに?ちなみに、そんな風説のなかで、秀頼の実父として名前が挙がる人物がいます。

それが、片桐且元、大野治長、石田三成…。特に大野治長は、淀殿との密通疑惑が出るほど昵懇の仲…。
淀殿の乳母・大蔵卿局の子で、淀殿も相談相手として頼りにしました。周囲が「出来ている」と邪推するのも自然なこと(本誌より)でした。


(イラストACより)

ただ、本誌の結論は、「秀頼は秀吉の実子だった」というもの。曰く、「天下人となった秀吉は、世継ぎを得るための努力をしていた」。
温泉に浸かったり、灸をやったり、漢方も試したり…。子宝を授かるために涙ぐましい努力をしています。その努力が報われたんですかね。

さらに、「物語の世界ほど、淀殿の日常生活は自由なものではなかった」。そりゃ、天下人の寵姫、悪い虫がつかないように、統制がしかれたことでしょう。
ただ惜しむらくは、秀頼は秀吉と信長(※淀殿は信長の姪)の血筋を受け継ぐサラブレッドでありながらも、その素養を伸ばす機会を得られませんでした

それは、母・淀殿の過保護もあったでしょうが、秀頼本人の問題も…。成人しても秀頼が自ら前に出ることが無かったのは、少なくともリーダーとしての資質は欠けていると言わざるを得ません。
やはり、環境がひとを育てるんですかね…。その血筋はどうであれ、大坂城で純粋培養された秀頼は、大局観を育むことがないままに開戦に踏み切って豊臣家の命脈を断ちました…。


他にも、興味深い謎がいっぱい。秀頼生存説や家康死亡説や真田丸決戦の真相などなど…。
これは読みごたえがあります。家康ファンも家康アンチも、これは読んだ方がいい…。「もしこうだったら」という歴史の"if"に思いを馳せる大特集です。

今日の夢中は、歴史人2024年1月号特集「大坂の陣12の謎」。あなたも、戦国最後の合戦「大坂の陣」に思いを馳せてみませんか。
ありがとう、歴史人! ありがとう、「大坂の陣12の謎」!

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