歴史人「藤原氏1300年の真実」!その誕生から躍進、凋落まで…史上最強の一族・藤原氏の実像に迫る

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館長のふゆきです。

今日の夢中は、歴史人「藤原氏1300年の真実」!その誕生から躍進、凋落まで…史上最強の一族・藤原氏の実像に迫る…です。
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■歴史人

いつも歴史ファンにたまらない情報を届けてくれる「歴史人」
2024年8月号は、やっぱりこの一族が取り上げられたかという一大特集が組まれました。

それが、いま大河ドラマ「光る君へ」で注目の一族・藤原氏に脚光を当てた保存版特集。
古代から近現代まで藤原氏の系譜を追う!「藤原氏1300年の真実」です。

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「光る君へ」では、まさに藤原道長が比類なき権勢を確立しようとする途上…。
いずれ、「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも 無しと思へば」という有名な歌もうたわれることでしょう。

そんな栄華を極める藤原氏ですが、もちろんはじめから絶大な権力を持っていたわけではありません。
藤原氏は、いかにして一族繁栄の礎を築いたのか。そして、いかにして黄金時代を迎えるに至ったのか…。

さらには、武士団の台頭による凋落に至るまで、藤原一族の栄枯盛衰を歴史人が徹底解析。
時系列で藤原氏の系譜を追いかけることで、史上最強の一族・藤原氏の知られざる真実を解き明かします。

果して藤原氏とは何者だったのか?もちろん、「光る君へ」で描かれるであろう道長のその後の運命も記されています。
頁をめくるべきか否か悩みますが、やっぱりめくっちゃいましょう!今日の夢中は、「歴史人」2024年8月号特集「藤原氏1300年の真実」です。

■藤原氏の誕生そして躍進

古代・日本王朝史において絶大な存在感を示した藤原氏
本誌では、藤原氏の栄枯盛衰の系譜が時系列で示されています。藤原氏の誕生から躍進、絶頂期から凋落へ…。
さまざまな藤原某が登場しますが、その中から個人的に特に惹かれた人物を紹介しましょう。

まずは、藤原一族の始祖、中臣(藤原)鎌足です。
歴史の教科書などでもお馴染み、ときは飛鳥時代、大化の改新で頭角をあらわした人物ですね。

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このとき、鎌足とともに蘇我氏を打倒したのが、中大兄皇子。のちの天智天皇でした。
この中大兄皇子との厚い信頼関係が鎌足の、ひいては藤原氏の運命を左右しました。鎌足は中大兄を援け、改新政治を推進します。

鎌足の死にあたって、即位して天智天皇となった中大兄は使者を遣わし、鎌足に「藤原」の姓を授けました。ここから、藤原氏がはじまったのですね…。
さらに、その嫡孫には21歳になると正六位上に叙位されるという特典を与えました。生まれながらにして貴族界の高位となる一族…藤原氏の誕生です。

さらに藤原氏の勢力基盤を築いたのが、鎌足の子・藤原不比等です。
鎌足にとって天智天皇がそうであったように、不比等を側近として重用したのが持統天皇でした。

持統の命を受けた不比等は、新たな国家統治の法典となる大宝律令を編纂。律令国家の基礎を築きました。
さらに同じ頃、不比等は長子・宮子を入内させています。この宮子が皇子(後の聖武天皇)を出生、不比等の政治的地位は確固たるものとなりました。

不比等は、持統崩御後も代々の天皇から厚く用いられます。それは外戚関係を持ったこともさることながら、その優れた行政能力によるところも大きいでしょう。
大宝律令の施行のほか、和同開珎の発行や平城京遷都などでも重要な役割を果たしました。不比等は藤原氏発展の基盤を築くとともに、古代日本の礎を築いたと言えるでしょう。

■藤原氏の黄金期へ

さらに時は進んで平安時代、藤原氏の内部で権力の座をかけた骨肉の争いが繰り広げられます。
10世紀後半、特に激しく争ったのが、藤原兼通と兼家の4歳違いの兄弟でした。

兼通は策略をめぐらし、当時官位が上位だった兼家を逆転して内大臣そして関白となります。
こうして藤原氏の頂点に立った兼通ですが、病気になると、どうしても兼家に関白の地位を渡したくなかったのか、関白の座を弟の兼家ではなく従兄弟の頼忠に譲ります。

それでも兼家は諦めませんでした。娘らを朝廷に入内させ、着々とその地位を強固なものとしていきます。
そしてついに実力行使に打って出ます。ときの花山天皇をそそのかして出家に追い込み(寛和の変)、外孫となる一条天皇を即位させると、ついに摂政の座を手に入れました。

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さらに骨肉の争いは続きます。兼家の後を継いだ長男・道隆が病で没すると、政権の座をめぐって、道隆の息子・伊周と道隆の弟・道長が政権争いを繰り広げます。
そんな中、伊周の従者と花山法皇の従者の乱闘事件が発生。道長は、法皇が弓で射られたと喧伝し伊周を九州左遷に追い込みました(長徳の変)。

こうして政敵を排除し政権基盤を安定させた道長は、さらに娘の彰子を入内させ、生まれた皇子敦成の立太子を強行。
さらにはときの三条天皇に退位を迫り、敦成親王の即位につなげます(後一条天皇)。ここにきて道長は、ついに天皇の外祖父となり摂政に任じられたのです。

■絶頂から凋落へ

念願の摂政の座を手に入れた道長は、間もなく長男・頼通を3人抜きで内大臣に抜擢。
その直後に摂政の座を頼通に譲り、道長の血統による摂関世襲を確立。ここに藤原氏(摂関家)は絶頂期を迎えました。

道長は長女・彰子、次女・妍子に続いて、三女・威子を入内させ「一家三立后」を実現。
これに感激した道長は、「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも 無しと思へば」という和歌を詠みました。

道長・頼通と続いた摂関政治で栄華を誇った藤原氏ですが、11世紀後半に入るとみるみる輝きを失っていきます
藤原氏を外戚としない後三条天皇が即位。さらに白河上皇の代に院政が本格的に開始されると、政務の主導権は藤原氏から天皇家へと移っていきました。

輪をかけて武士勢力が台頭。源氏一門などの公卿進出が著しくなり、藤原摂関家による外戚独占体制が解体します。
さらに、藤原氏の内紛も一因とする保元・平治の乱によって、世は武家の時代へと移り変わり、藤原氏の凋落は決定的なものとなりました。

なお、武家社会が到来して以降も、藤原氏は滅びることなく、時の権力者である平家や源氏と連携を進めながら生き永らえます。
武家時代に重要な役割を果たす近衛家や九条家などは藤原氏の血流。さらに明治以降となっても、藤原氏は華族となって各界で活躍する人物を生み出すことになるのです。


今日の夢中は、「歴史人」2024年8月号、特集「藤原氏1300年の真実」。なんとも読み応えのある一大特集でした。
史上最強の一族とも称される藤原氏…。その栄枯盛衰は、まさに日本の歴史を動かしたと言えるでしょう。ここで紹介したのはごく一部の藤原某ですので、もっと知りたい方は本誌をご覧ください。

ありがとう、歴史人! ありがとう、特集「藤原氏1300年の真実」!

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