こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。
今日の夢中は、歴史人「古代の都と遷都の謎」!こんなにあった古代の都…遷都をめぐる権力闘争もです。
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■歴史人
いつも歴史ファンにたまらない情報を届けてくれる「歴史人」。
2023年4月号は、時をさかのぼって、遠く古の時代へ…。
飛鳥宮、難波宮、藤原京、平城京、長岡京、平安京…古代都市の謎を解く…。
おとなの歴史学び直し企画「古代の都と遷都の謎」です。
古代の都と言えば、平城京と平安京…。多くの人はその2つが思い浮かぶはず。
でも実は、平安京に至るまでに、平城京だけでなく、何度も遷都を繰り返しているのです…。
なぜ古代は遷都が多かったのか? 宮と京の違いってなに?
どうしてその場所を選んだのか? 幻の福原京とは?
歴史人が、古代の謎と古代都市の魅力に迫ります。
今日の夢中は、歴史人「古代の都と遷都の謎」。歴史人の誌面から古代ロマンの世界に耽りましょう。
■なぜ古代は遷都が多かったのか
古代都の変遷をみると、推古天皇から桓武天皇までの約200年間で、遷都回数は20回を超えます。
豊浦宮、小墾田宮、飛鳥岡本宮、田中宮、厩坂宮、百済宮、飛鳥小墾田宮、飛鳥板蓋宮…(以下略)。
知らなんだ…。これを学校の授業で覚えないといけないなら、ちょっと難儀ですね…。
ただ、これでもまだ一部。「日本書紀」をみると、初代天皇とされる神武が橿原宮で即位して以来、代々の天皇は代替わりのたび遷都を行っています。
この「歴代遷宮」は、持統天皇が持統8年(694年)藤原京に都を移すまで続きました。
でも素朴な疑問が浮かびます。なぜ歴代天皇は多大な費用をかけてまで遷都を行ったのか?
歴史人の誌面に、いくつかの説が取り上げられています。
まず素朴なもので「建物の耐用年数説」。なるほど、建物が朽ちたら遷りますよね。でも、一代で住めないほどに朽ちちゃうのかしら…。
即位の適地を卜定したという説もあります。いわば、占いで都の場所を決めたというもの。
今でも方位学とかありますからね。でも、何回も何回も適地が変わるというのはいかがなものでしょう…。
さらに、本居宣長らが提唱した「父子別居説」。当時、天皇の妻は宮でなく実家で生活し、天皇はそこに通っていました。
生まれた子も妻とともに住むため、子が新天皇になったときには妻の実家が宮になるというものです。
そして「死穢忌避説」。天皇が死去すると、その宮に死のケガレが生じるので、それを避けるために遷都したというもの。
本誌によると、この説が現在のところ最も有力とされているそうです。いずれの説も大変興味深いですね…。
■古代の都で繰り広げられた権力闘争
古代の都が、血なまぐさい事件の舞台となったこともあります。
それが大化元年(645年)に起きた乙巳の変。当時の宮が置かれた「飛鳥板蓋宮」で起きました。
当時権力の絶頂にあった蘇我入鹿を中大兄皇子・中臣鎌足が襲撃。飛鳥板蓋宮の大極殿で斬殺したとされます。
大化の改新の発端となった事件。これを機に、豪族たちによる連合国家から、天皇を中心とする律令国家に移り変わっていきました。
(蘇我入鹿の首塚/写真ACより)
その移り変わりの象徴とも言えるのが、大化の改新5年後に築かれた「難波長柄豊崎宮」。
天皇中心の中央集権国家を目指す中大兄皇子らは、飛鳥から新たに難波に都を遷したのです。
その遷都について史実を疑う見解がありましたが、大阪城の南側に南北約650mに及ぶ大規模宮城の遺構が発見。
そこには内裏と多数の官衙群が建設されていたと見られ、平城京や平安京のルーツとなる都市を含む都がこのとき初めて造られました。
(難波宮史跡公園/写真ACより)
その中大兄皇子(即位して天智天皇)は、近江への遷都を行っています。築かれた新都は「近江大津宮」。
これは、朝鮮での白村江の戦いで敗れた天智が、唐・新羅軍の侵攻を警戒して、大阪湾から離れた近江に遷都したと考えられています。
ただ、この近江の都はわずか5年の短命に終わります。天智の死後、後継をめぐって壬申の乱が勃発。
近江朝廷軍は敗れ、勝利した大海人皇子(即位して天武天皇)が再び飛鳥へ都を遷しました(飛鳥浄御原宮)。
この一連の遷都の流れを見るだけで、古代に興味がそそられますね…。
古代の都を舞台に、古代版「鎌倉殿の13人」のような権力闘争が繰り広げられたことが想像されます。三谷さん、ドラマ化しないかしら?
他にも、普段は知ることのない古代の都とそれにまつわるストーリーがずらり掲載されています。
古代ロマンが広がること間違いなし。今日の夢中は、歴史人「古代の都と遷都の謎」でした。
ありがとう、歴史人! ありがとう、「古代の都と遷都の謎」!