なぜ頼朝は義経を許さなかったのか?永井路子「つわものの賦」より

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

今日の夢中は、なぜ頼朝は義経を許さなかったのか?永井路子さんの歴史評伝「つわものの賦」から紐解きます。


(満福寺/義経弁慶主従像)

■つわものの賦

「北条政子」「炎環」などで、鎌倉草創期を鮮烈に描いた永井路子さん
「炎環」では、阿野全成や北条義時など、それまで歴史の表舞台には上ることのなかった人物を描き、第52回直木賞を受賞しました。

永井さんは、小説家としてはもちろん謎多き鎌倉時代の考証においても、第一人者として広く信望を集めています。
「つわものの賦」は、「吾妻鏡」を何度も読み返したという永井さんによる「鎌倉時代に対する一つの決算書」(「あとがき」より)。これまでの作品を総括するように、鎌倉草創期の人物や出来事を取りまとめた歴史評伝です。


つわものの賦

同書の章立ては次のようになっています。

序章  嵐の中への出発   治承四年八月
第一章 中世宣言      三浦義明の場合
第二章 空白の意味するもの 上総広常の場合
第三章 功名手柄      熊谷直実の場合
第四章 東国ピラミッド   源平合戦の意味
第五章 「忠誠」の組織者  梶原景時の場合
第六章 大天狗論      東国対西国
第七章 奥州国家の落日   征夷大将軍とは何か
第八章 裾野で何が起ったか 曽我の仇討ちにひそむもの
第九章 血ぬられた鎌倉   比企の乱をめぐって
第十章 雪の日の惨劇    三浦義村の場合
第十一章 承久の嵐     北条義時の場合

どれもこれも読みごたえがあるんですよね…。新たな発見もたくさんありました。
今回はその中から、主に第五章で描かれる、源頼朝と義経兄弟の相克に至る背景について取り上げます。

■なぜ頼朝は義経を許さなかったのか

義経は、兄頼朝の代官として西国攻めに出陣すると、その天才的な軍略を発揮します。
頼朝の期待に応えて各地を歴戦、源(木曽)義仲を宇治川で破り、平家一門も壇ノ浦で滅亡に追いやりました。

しかし頼朝は、義経にろくな恩賞も与えず、それどころか一旦与えた恩賞までとり上げました。
さらに、鎌倉まで来て弁明しようとした義経を、腰越に留めて対面もせず、そのまま京に追い返しました。

有名な「腰越状」。義経が切々と自身に翻意のないことを綴った書状を、頼朝は黙殺しました。
ここに至る経緯を見て、多くの人が抱く疑問があります。なぜ頼朝は義経を許さなかったのか…

鎌倉腰越「満福寺」!義経が頼朝に宛てた腰越状、その思いも虚しく…

この疑問に対して、永井さんが「つわものの賦」で、とても興味深い説を展開しています。
それは、巷に言われる頼朝の嫉妬や冷酷さによるものではなく、頼朝が東国の王者として新たな国家を創るための覚悟の判断であったと言うものです。

永井さんは、頼朝を棟梁とする東国武士団の蜂起とそれに続く源平合戦を「"東国"という名の植民地が西国に対して行った独立戦争」であると指摘します。
これまで西国から酷使され差別されてきた東国が、独立を手に入れるために蜂起した戦いなのだと…。

源氏対平家ではなく、東国対西国の戦い。そう捉えると、この源平合戦で見える絵が大きく変わります。
頼朝は、東国の独立を勝ち取るために、西国のあらゆる支配も干渉も排除する必要がありました。

特に、気を掛けたのが「恩賞権」です。領土争いを繰り返す東国武士団を結束させたのは、その恩賞に基づく「御恩と奉公」の仕組みでした。
それを組織レベルにまで行き渡らせたことが、永井さんが「東国ピラミッド」と呼ぶ、東国の独自性であり強さの源泉でした。

このピラミッドの頂点にいる頼朝は、東国でただ一人の恩賞給付者でなければありません。
だって、頼朝以外のひとが勝手に恩賞をふりまいたら、やっと結束した東国の土台はたやすく崩壊しちゃいますよね…。

■頼朝の恩賞権

この頼朝の恩賞権を侵したのが、弟の義経でした。
義経は元暦元年(1184年)、頼朝に無断で左衛門少尉に任官してしまいました。

官位を与えたのは、西国の公家政権の長・後白河法皇です。西国は、頼朝が欲しても得られない、官位・官職という恩賞権を持っていました。
頼朝はこれを警戒して、あらかじめ朝廷に対して、東国武士団による恩賞は自身がまとめて上申することを申し入れています。

同時に、東国武士団に対しても、朝廷から勝手に恩賞を貰うなと釘を刺しました。
これを、自身の弟の義経が破るのですから、東国ピラミッドの確立強化に砕身する頼朝にとっては許しがたい問題だったことでしょう。


(源頼朝/イラストACより)

このことについて、永井さんは本書の中で、植民地と本国の関係を例に出して、次のように言っています。
独立運動の闘士の弟で、それまで片腕だった男が、爵位を与えられ、「サー」などと呼ばれて、のこのこ本国側に寝返ったとしたら?…。

実際に、義経の任官を機に、弟君でさえ勝手に任官したのだからと、東国武士らは次々に任官してしまいます。
頼朝はこれに激怒、任官した侍を罵り、東国への帰還を禁じました。いわゆるクビを言い渡したのですね…。頼朝がいかに事態を重視していたか分かります。

このような状況下、事の重大さに気づかずに、のこのこと東国にやって来た義経を、頼朝が許せるはずはありません。
しかも、例の「腰越状」で義経は、無断の任官について謝るどころか、「わが家の名誉じゃないか」と開き直りともとれるような書きぶりをしています。

■義経の軽挙

これはキツい…。永井さんも義経の軽挙を嘆いています。
曰く、「数百年に一人といってもよい用兵の才を身に享けて生まれてきたこのこの若き武将は、その反面、気の毒なほど政治的才能や歴史感覚を欠如していた」。

もともと、義経の専横は、これが初めてではありません。戦場においても、頼朝の「眼代り」たる軍監の助言を無視して独断専行。
これは梶原景時などから逐次頼朝に報告されました。義経が頼朝から恩賞を得られなかったのは、これが原因とも言われます。

頼朝にしてみれば、弟義経の独断専行は、怒りとともに不安を引き起こすものでした。
それは、頼朝を頂点とする東国ピラミッドの土台を崩しかねないという危惧…。ピラミッドの頂点は複数いりませんでした。


(源義経/イラストACより)

なお、この頼朝と義経の対立については、なぜ兄弟がそこまで?と思ってしまうのですが、これについても永井さんが解説しています。
曰く、「当時、母の違う兄弟は他人も同然だった」。頼朝と義経は異母兄弟です。両者は源平合戦で初めて対面したものと思われます。「異母兄弟はむしろライバルである場合が多い。互いに警戒を怠らないのが常」でした。

しかも、頼朝は東国ピラミッドという新しい組織をもって、強大な本国に独立戦争を仕掛けている最中…。
頼朝にとっては、「兄弟のなれなれしさよりも、主君と臣下のルールを守って貰わねば困る」のです。ここが、「平家をはじめ古代藤原氏の政権のあり方と根本的に違うところである」と永井さんは断じます。

頼朝は義経を許しませんでした許すわけにいきませんでした
この後、兄弟は骨肉相食む戦いを繰り広げ、ついに頼朝は義経を自害に追い込むことになるのです…。

さすがは、「吾妻鏡」を何度も読み返したという永井路子さんによる鎌倉時代の決算書「つわものの賦」
史料に残る具体的な事象をもとに、鎌倉草創期に生きた武将らの生き様が解像度高く伝わって来ます。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の時代とも重なる歴史評伝。あなたも鎌倉殿に潜む謎を紐解いてみませんか?

ありがとう、永井路子さん! ありがとう、「つわものの賦」!

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