歴史人「藤原道長と紫式部」!"光る君へ"で注目の平安絵巻、道長と紫式部の生涯とは?

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館長のふゆきです。

今日の夢中は、歴史人「藤原道長と紫式部」!"光る君へ"で注目の平安絵巻、道長と紫式部の生涯とは?です。
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■歴史人

いつも歴史ファンにたまらない情報を届けてくれる「歴史人」
2024年2月号は、やっぱりこの時代のこのひとが取り上げられました。

それが、保存版特集平安王朝時代がまるわかり!「藤原道長と紫式部」です。
2024年大河ドラマ「光る君へ」でいま注目が集まる平安時代、主人公の紫式部と藤原道長を特集です。

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「光る君へ」は平安時代の宮廷社会が舞台ということで、貴族の恋物語が描かれるのかな…。
なんて思いながら第1回放送を観たら、予想に反していきなり主人公の母親が惨殺されるという衝撃のスタート。

どうやらドラマでは恋物語だけでなく、兄弟親族の出世争いなど宮廷社会の権謀術数も描かれる模様。
これは「鎌倉殿の13人」のような骨肉相食む展開か…。俄然興味がかき立てられるドラマとなりました。

ということで、やはり気になるのは、紫式部や藤原道長が今後どのような人生を歩むのか…。
知ってるようで知らない…多くのひとがそうなのではないでしょうか。ということで、今日は歴史人の誌面からドラマの先をのぞいてみましょう。

今日の夢中は、大河ドラマ「光る君へ」で注目の2人「藤原道長と紫式部」にロックオン。
はたして2人はどんな生涯を送ったのか?歴史人の誌面から、平安時代にバーチャルトリップしていきましょう。

※以下は、ドラマで今後描かれるであろう内容に関わります。知りたくない方は読むのをお控えください。

■紫式部

それでは、まずはドラマの主人公「紫式部」。ドラマでは吉高由里子さんが演じていますね。
1000年以上もの長い時を越えて読み継がれてきた「源氏物語」の作者。しかし、その実像は謎のベールに包まれています。

実は生没年不明、出自や家系なども諸説あります。そんな紫式部の素顔を歴史人が徹底調査。
「紫式部の生涯と知られざる素顔」と題して、残された日記と和歌からその実像に迫ります。

「位の低い家の娘だった」とも言われる紫式部ですが、実は天皇家にもかかわりがある良家の出身だったよう。父藤原為時は著名な文人、母方の祖父藤原文範も学者として知られたひとでした。
そんな血筋を受け継いだ紫式部も文学で才能を発揮します。幼少の頃、父為時が弟に漢籍を教えていたときに横で聞いていた紫式部がみるみる覚えてしまい、為時が「男の子でなかったのが残念」と嘆いたというエピソードが残っています。

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紫式部は20代半ばで、20歳も年長の藤原宣孝と結婚。娘賢子も授かりますが、ほどなく宣孝は他界。幼い子を抱えて生きる日々の中で「源氏物語」を書き始めたと言われます。
この「源氏物語」が評判になると藤原道長と妻倫子から声がかかり、一条天皇の中宮彰子(道長夫妻の娘)の元に出仕することになりました。これは、彰子のもとで「源氏物語」が作られ文化的な地位を上げることで、帝の関心を高め寵愛が深まることが期待されたものと考えられます。

実際に「源氏物語」は一条天皇の高い評価も勝ち取っています。さらに、帝と彰子の間に待望の皇子(のちの後一条天皇)も…。「源氏物語」が平安の宮中にさまざまな絆をつくったと言えるかもしれません。
なお、紫式部の晩年の動向は断片的。一条天皇崩御後も彰子を支えたようですが、史書に寛仁3年(1019)、推定47歳の頃に登場して以後その姿が確認できず、この後数年のうちに亡くなったと考えられます。

■藤原道長

続いて、朝廷最大の実力者となる藤原道長。ドラマでは柄本佑さんが演じています。
本誌では「知られざる藤原道長の生涯を追う」というタイトルで、その誕生から没年までを徹底解明しています。

藤原道長は康保3年(966)、名門藤原氏北家の主流、兼家の四男として生まれました。
兼家は、当時の帝・花山天皇を騙して出家させ退位させると(寛和の変)、自身の娘詮子の生んだ皇太子懐仁を即位させます(一条天皇)。こうして天皇外祖父となった兼家は、念願の摂政の座に就きました。

こうしたなか、道長は永延元年(987)、従三位に叙されて22歳の若さで公卿に昇進。翌年3月には権中納言へとスピード出世します。
しかし、道長の上位には兄である道隆・道兼がいました。特に道隆は兼家の後継本命。永祚2年(990)には兼家から関白の地位を譲られ、さらに自身の後継を嫡男の伊周(これちか)として道隆の直系で摂関世襲を目論みます。

しかし正歴5年(994)、道隆は病に倒れます。道隆は伊周への世襲を実現させようとしますが、長徳元年(995)道隆が没すると、一条天皇は道隆の弟である道兼を関白に任じました。
しかし間もなくその道兼も病により死去。その結果、空白となった政権トップの座を射止めたのが、道長でした。

道長を強く推したのは、兄弟のなかでも特に親しかった姉の詮子(一条天皇の母)と言われています。
これに反発した伊周は道長と衝突を繰り返しますが、道長が黒幕とも噂される「長徳の変」(「花山院乱闘事件」とも言う)で自滅。九州に左遷されました。

政敵を排斥した道長は、一条天皇のあとに即位した三条天皇をも退位に追い込み、自身の娘彰子と一条の間に生まれた皇子を即位させます(後一条天皇)。こうして天皇外祖父となった道長は摂政の座に就きました。
さらにその摂政の地位を長男頼通に譲り、摂関の世襲を実現。「この世をば我が世とぞ思ふ 望月の欠けたることもなしと思へば」と詠み、藤原氏の栄華を高らかに誇りました。

道長は晩年、法成寺の創建など仏事に専念することが多くなります。この頃道長は相次ぎ娘らに先立たれて憔悴、心身の安らぎを求めていたのかもしれません。
万寿4年12月(1028年1月)、法成寺において死去。享年62歳。道長の遺骨は宇治陵と呼ばれる墓地群に葬られましたが、現在は住宅街や茶畑と化していてその葬地は不明となっています。

■紫式部と藤原道長の関係

なお、気になる紫式部と藤原道長の関係ですが、「紫式部日記」には2人のエピソードが数多く綴られています。
早朝に花を持って紫式部の部屋を訪れたとか、息子頼通の結婚について相談をもちかけてきたとか、紫式部の和歌に大満足して自ら返歌したとか…。

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なかでも、夜中に道長が紫式部のもとを訪ねるエピソードは意味深。
紫式部が渡殿の部屋で寝ていたとき、戸をたたく人がいたが、恐ろしくて音を立てずに夜を明かした。するとその翌朝、「一晩中、泣きながら水鶏さながら戸を叩き続けたのですよ」という和歌が届けられた。

水鶏は当時、求愛の和歌に詠まれました。それに対して紫式部は次のように返歌したと言います。
「尋常ではない叩き方をする水鶏でしたから。もし戸を開けていたらきっと後悔したでしょう」

なんだか只ならぬ関係をにおわせるエピソードですよね…。
紫式部は道長の召人であったという説もあります。召人とは、主人筋と男女の関係にある女房のこと…。ただ、その説を強く否定する研究者も多く、真実はどうか分かるものはありません

果たして2人の関係は、大河ドラマ「光る君へ」では、どのように描かれるのでしょうか。
さまざまな人間模様も楽しみですね。今日の夢中は、歴史人の特集「藤原道長と紫式部」でした。

ありがとう、歴史人! ありがとう、「藤原道長と紫式部」!

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